~原始仏典 スッタニパータ 第2章 第5節 ”スーチローマ” の 内容より~



(神霊スーチローマが 尋ねた)

270 ”貪欲” と ”嫌悪” とは いかなる原因から 生ずるのであるか?

    ”好き” と ”嫌い” と・・・

    ”身の毛のよだつ(戦慄)” とは どこから 生じるのであるか?

    ”諸々の妄想” は どこから起こって 心を 投げ打つのか?

     あたかも 子供らが 烏(カラス)を 投げ捨てるように。

     (これは ”無知な子供” の ”愚かな行為” を 意味します)
 


(ブッダは 答えた)

271 ”貪欲” と” 嫌悪” は ”自身” から 生じる。

    ”好き” と ”嫌い” と ”身の毛のよだつ(戦慄)” とは・・・

    ”自身” から 生じる。
 
    ”諸々の妄想” は ”自身” から 生じて 心を 投げ打つ。

     あたかも 子供らが 烏を 投げ捨てるように。



272 それらは ”愛執” から 起こり ”自身” から 現れる。

    あたかも ”榕樹(バ二ヤン)”の 新しい若木が 枝から生じるようなものである。

    それらが 広く 諸々の欲望に ”執着” していることは

    たとえば つる草が 林の中に はびこっているようなものである。




273 神霊(スーチローマ)よ 聞け。

    それらの ”煩悩(ぼんのう・欲望)が・・・

    いかなる ”原因” に 基づいて 起こるかを ”知る人々” は・・・ 

    (自分自身の)”煩悩” を ”除き去る” 。

    かれらは 渡り難く 未だかつて 渡った人のいない・・・

    この ”激流(人間世界の荒波・現世のこと)” を 渡り・・・

    もはや 再び ”生存” を 受けることがない。





こんにちはわんわん


前回の記事で ご紹介した 第4節では・・・

ゴータマ・ブッダが ”神と対話する” という 場面でした。

そこでは ”世俗に生きる者” に対する ブッダの教えが 示されていました。本



それは たとえ ”神” であっても・・・ 

“変化” や ”苦悩” を 受ける ”生存者” なのであり・・・

人間と同様に “解脱していない存在” として 考えられています。

それゆえに “神” も “迷いの生存” という ”苦しみの現実” から・・・

”脱出する方法” を ブッダに ”教えてもらう” ということなのです。

そして この 第5節でも ブッダと ”神霊” との 対話が 示されています。星



まず 神霊スーチローマは・・・ 

”貪欲” と ”嫌悪” とは・・・

”好き” と ”嫌い” と ”身の毛のよだつ(戦慄)” とは・・・

”諸々の妄想” は どこから 生じるのであるか? を ブッダに 尋ねます。

これらが 意味するものは それは ”神霊” であっても・・・

それらによる ”苦しみ” を 味わっている ということです。

だから その ”苦しみの原因” を ブッダに 尋ねているのです。オバケ



私たちも 自分自身の ”貪欲(とんよく)”・・・

つまり ”欲望の対象” を ”むさぼる行為” を 問うとき・・・

それは 自分の ”外部の対象” が 存在するから そうなると 考えます。

さらには ”好き” ”嫌い” の 対象・・・

”戦慄(ふるえおののく・恐怖する) ことの 対象・・・

”妄想(愚かな想念・愚かな考え方)” の 対象などを・・・

すべて ”外部の対象” に その ”原因” を 追及しようとします。パンチ!



しかし ブッダは ここで 神霊スーチローマ に 対して・・・

その ”根本的な原因” というのは ”自身”・・・

つまり ”自分自身” から 生じていると 説いているのです。

つまり すべての ”原因” というものは・・・

”あなた自身” が ”発生させている” と 示しているのです。目




たとえば 自分自身が ”嫌い” だと 思っている 人間に対して・・・ 

”そいつ” が いるから 自分に ”嫌いという感情” が 発生すると 考えるわけです。
  
つまり ”嫌いという感情” によって ”不愉快” に 感じるのも・・・

”すべての原因” を ”その他人” に ”押し付ける” わけです。プンプンDASH!




その結果 ”その他人” が ”邪魔” に 思えるようになり・・・

自分の周囲から ”排除” しようと 考えるようになります。

そこから 人間同士の ”摩擦” や ”トラブル” が 発生します。

それが 人間同士の ”争いの原因” に なるのであり・・・

やがて ”取り返しのつかない” ような ”重大な事件” にも 発展するわけです。

そこには 同時に 人間同士の ”激しい苦しみ” も 生じるわけです。ドクロ




しかし ”嫌い” という 感情は・・・

自分自身が ”人間” として ”生きている” ことで 発生します。

これは まったく ”あたりまえ” の ことですが・・・

このような ”あたりまえ” のことを 私たちは すぐ ”忘れてしまう” わけです。

それを ブッダは ここで ”思い出しなさい” と 説いているのです。ひらめき電球ひらめき電球ひらめき電球




そして それらの ”苦しみ” というのは・・・

自分自身の ”愛執(愛欲への執着)” から 現れると 説いています。

私たちに 何か ”好きなもの” や ”愛するもの” が できると・・・

それを 何としても ”守りたい” と 思うようになります。

そこから 私たちの ”執着” が 始まります。

それが いわゆる ”愛執” と 呼ばれるものです。ラブラブ




原始仏典では それは ”榕樹(バ二ヤン)” のように 生えてくると たとえています。

これは インド原産の ”ベンガルボダイジュ” とも 呼ばれます。

この植物は 幹(みき)が 何本もあり ロープのような根を 地面に下ろし・・・

それが 太くなって さらに 幹になり 外側へと 際限なく 広がってゆきます。

その姿が 以下の写真です。

 
  



私たちの ”欲望” や ”執着” というものは・・・

知らず知らずのうちに このような ”巨木” のように なっているようです。

そうなれば もはや 自分自身では どうしようもなくなり・・・

その結果 ”苦しみに満ちた人生” を 余儀なくされるようです。

つまり ブッダは そうなる前に・・・

さまざまな ”欲望の枝” を ”除去してしまいなさい” と 説いているのです。はさみ




そして それが 達成されれば・・・

私たちは ”人間としての苦しみ” から ”解放される” ことになります。

そして 自分自身が ”苦しまない” 状態になれば・・・

そこに ”心の平穏” が 維持されるようになります。

それが この人生で ずっと 続けられれば・・・

私たちは ”永遠の平穏” である ”ニルヴァーナ” に 到達できます。虹




そして 私たちは この ”宇宙” において・・・

もはや 再び ”生存” を 受けることがない。・・・

つまり 二度と ”人間” や ”生物” に ”生まれ変わらない” ことになり・・・

その結果 ”苦しみのない存在” へ 移行することが 可能になるのです。

これが ブッダが 人類に示していた ”本当の教え” なのです。目




私たちが この世界で さまざまなことで ”苦しむ” のは・・・

自分自身が ”人間” で あるから 起こっています。

この 紛れもない ”真理” を 知っているか 知らないか によって・・・

私たち自身の この ”一生の価値” も 大きく 変わってしまうようです。ガーン




だから 私たちは ”無知な子供” の ままでなく・・・

この世界の ”真理” を ”知る・悟る” ことによって・・・

”妄想(愚かな考え方)” によって ”心を投げ打つ(自分を見失う)” ことなく・・・

自分自身の ”内面” を しっかり ”見つめなさい” と・・・

仏教の開祖であった ゴータマ・ブッダ は 説いているのです。星




私たちの 日常生活では ”好き” や ”嫌い” という 感情が・・・

ごく ”あたりまえ” のように 発生しますが・・・

それこそが 私たち自身を ”苦しめる原因” のようです。

ブッダは そのような ”ムダな感情” を ”捨て去りなさい” と 説いているのです。

そして 自分自身を ”好き” や ”嫌い” も ”ない” という・・・

”中立な状態” に 保ちなさい と 教えています。

そうなれば 私たちの ”内面” は 常に ”平穏の状態” に なれるのです。

実は それこそが 人間にとっての ”本当の幸福” なのかもしれません。目





皆様も ご自身の ”好き・嫌い” という 感情が・・・

いったい どこから ”発生するのか” について お考えになり・・・

ご自身が なぜ これまで ”苦しめられてきたのか” について お考え下さい。

それを 正確に知るために 役立つのが ”ブッダの教え” なのであり・・・

私たちは そこから ”苦しみのない人生” が スタートされると 考えられるのです。ニコニコ 











(※)”ブッダの教え” による ”愛” について 考えました・・・ 

   ”本物の愛 とは?” の 記事は こちらから お読み下さい 星