こんにちは わんわん



今回の記事でも 原始仏典 スッタニパータ 第三章 第四節・・・

”スンダリカ・バーラドヴァージャ” の 内容を 考えます。星




実は ここでの 内容によって・・・

日本における 仏教での ”重大な問題点” が 理解されてきます。

それゆえに 皆さまも ここでの内容を 慎重に お読みください。

それでは 前回の内容の 続きを 見て参ります。本






474 欲望に 基づくことがなく

    欲望から 遠ざかり 離れることの意味を 知っており

    他者の見解(考え方) を 超越しており (他者に 左右されないこと)

    ”こだわり” や ”とらわれ” が 全くないという

    ”全き人 (まったきひと)” である ”如来(にょらい)” は

    ~お供えの供物(菓子) を~ 受けるにふさわしい~ (以下この部分省略)

   




475 すべての事物を 悟り (この世の ”真理を知った” という意味)

    すべての事物を 除去してしまい (すべてに対する ”執着を捨てた” という意味)

    それによって ”平安” に なっており

    ”執着” を 滅ぼしつくして ”解脱(げだつ)” している人。 

        



476 ”煩悩” による 束縛と

    ”迷いの生存” への ”生まれ変わり” とが 滅び去ったという

    ”究極の境地(ニルヴァーナ)” を 知見しており

    ”愛欲(性欲)の道” を 完全に 断っており

    清らかで 過ちがなく 汚れなく

    ”宝石” のように 汚れや 曇りがなく 透明である人。




477 自己を 実体として そこにあると 認めることがなく

    心が ひとしく 静まっていて ”安立” しており
   
    ”動揺” することがなく 心も 荒んでおらず

    ”疑惑” が ない人。

    (”真理” を 知っているので 何も 疑うことがない という意味です)




478 ”迷妄 (めいもう・無知の意味)” による障害は 何も存在せず

    あらゆることに ”智見 (すぐれた認識)” があり

    ”最後の身体” を たもち (前回の記事で解説した意味です)

    ”最高の悟り” を 得ている人。

    これだけでも 人の霊(たましい) は 清らかとなる。




(スンダリカは 言った)

479 あなたのような ”ヴェーダの達人” に お会いできたのですから

    私の ”供物” は ”本物” と なるはずです。

    さらに ”梵天 (崇高な神)” も 証人として ご覧になるはずです。

    先生! 私からの ”供物” を どうか 召し上がって下さい。



(ブッダは 答えた)


480 ”詩(詩経や呪文など) を 唱えて 得たものを (”謝礼” を 意味します)

    私は 食べてはならないのである。(受け取らないのである)

    バラモン (スンダリカ) よ・・・

    これは ”正しく見る人々(目覚めた人々・諸仏)” が 決めたことではない。

    詩を唱えて 得たものを 目覚めた人々は ”斥ける(しりぞける)” のである。

    これが ”目覚めた人(諸仏)” の ”行いのしかた(実践法)” なのである。
   



481 ”全き者” である 大仙人としての 煩悩の汚れを 滅ぼしつくし

    悪行による 悔恨(後悔すること) を 消滅させた人に 対しては

    ”他の食物” を ささげよ。

    それは ”功徳(くどく)” を 積もうとする者に

    確実に ”福田(ふくでん・福徳)” を もたらすからである。




(スンダリカは 言った)

482 先生! 私は これから どのようなひとに ”施し(ほどこし)” や

    祭祀の時に ”供養” を すべきなのでしょうか?

 

    
(ブッダは 答えた)

483  ”争い” から 離れており 

     心に ”濁り(にごり)” が なく

     ”諸々の欲望” から 離脱しており

     ”ものうさ(憂えること)” を 除き去っている人・・・




484 ”限界を超えたもの(煩悩・欲望)” を 制しており

    ”生死” を 究めており (生死の原理を 知っていること)

    ”聖者の特性” を 備えた人が 祭祀の場に 来たならば・・・




485  そのような人に対して 眉をひそめたり 見下したりは 決してせずに

     (そのような人は ”身なりが粗末” であることが 多いからです)

     かれを 合掌して 礼拝しなさい。

     飲食物を 与えて かれを 供養しなさい。

     そのような ”施し” を すれば

     あなたに “果報(幸福)” を もたらすだろう。



(スンダリカは 言った)

486  目覚めた人(ブッダ)である あなた様は

     まさに お供えの菓子を 受けるに ふさわしい方です。

     あなたは ”最上の福田(ふくでん)” であり 

     全世界の ”布施(ふせ) を 受けるべき人です。

     あなたに 差し上げたものは ”果報” が 大きいです。




そして バラモンである スンダリカ・バーラドヴァージャは 感激して

ブッダに 帰依することを 誓います。

そして ブッダのもとで ”出家” することになり 完全な戒律も 受けました。

さらに その後の 実践の結果・・・ 

彼は 無上の ”清らかな境地” を 現世で 悟ることになり・・・

それを 自分自身で ”証明” して ”具現” することになり・・・

その結果 ”究極の境地(ニルヴァーナ)” を ”悟る(到達する)” ことになりました。



そして 彼は・・・

生まれることは 尽きた。 清らかな行いは すべて 完成した。

”なすべきこと” を なし終えた。

もはや この世に 再び 生を受けることはない。・・・と 悟ることになり

スンダリカは ”聖人” と なったのです。




以上が 第三章 第四節 スンダリカ・バーラドヴァージャの 内容でした。本





バラモンである スンダリカは ブッダに対して・・・

神に供えたものを ”誰に 下げる(与える) べきか?” について 問いました。

そして ブッダは それを ”高貴な人” としての・・・

”完成された人” に 与えなさい と 説いたわけです。

そして そのような ”完成された人” の 人物像を・・・

ブッダは いくつもの 具体的な例を挙げて 示していました。メモ




しかし スンダリカが ブッダのことを・・・

”十分に 完成された人” であると 認めた上で・・・

ブッダに対して ”供え物を 食べてください” と 願い入れますが・・・

ブッダは それを 拒否するわけです。

それは なぜか? といえば・・・

そこに ”原始仏教” での ”重要な考え方” が 示されているからです。星
 



それが はっきりと 理解できる部分が No.480 の 内容です。

それでは 翻訳者である 中村元氏による・・・

この部分の ”巻末の注釈の内容” を かいつまんで ご紹介します。本




~ No.480 の 注釈より 

”詩を唱えて得たもの” というのは 仏教が 興隆した時代に

バラモンたちが ”ヴェーダの呪句” を 唱えて

それに対する ”布施” として 種々の物品 を 得ていたが

”真の求道者” は そのようなことをしてはならない ということを 述べたと考えられる。

一般民衆のために 祭祀を 実行したり

”呪句” を 唱えることを 当時のバラモンたちは 実行し

それによって得る 収入が 彼らの 生活源であった。



その裏面に 内包されている 趣意をいうと

バラモンたちが 呪句を唱えたのに対して ”物品の謝礼” を 与えることは

”無意味” である ということを 言おうとしているのである。




最初期の 仏教の修行者たちは 合理的な確信を持って 行動していた 求道者であった。

ところが 仏教教団が 発展して 民衆の間に 根を下ろすと

”お経を唱えて 布施を受ける” という 習俗が 成立した。~





ここで 書かれている内容が 何を 意味しているのか? を 考えますと・・・

仏教の開祖であった ゴータマ・ブッダは・・・

当時の バラモン教における風習を 完全に 否定していました。

それは ”呪句”・・・

つまり 経典に書かれている ”呪文” や ”経文” を 唱えることによって・・・

その ”謝礼” を 受け取ることが ”無意味” であると 説いていたのです。ショック!




そして No.481に 書かれていますが ”本当の修行者” に 対しては・・・

”謝礼” とは まったく ”別の種類の布施” を しなさい とも 説いています。

それは ”布施をする側” の ”徳を積む” ことが 目的とされます。

その行為は ある意味 ”一方的な行為” なのであり・・・

これが ”本来の意味” での ”布施” であると 考えられています。ひらめき電球





では ブッダが この節で 何を言おうと していたのか?・・・

それは ブッダは スンダリカに対して・・・

いわゆる “説法(せっぽう)” を したわけです。

つまり ブッダが ”供物” を 受けることになれば・・・

“説法” に 対しての ”謝礼” を 受けることになるので・・・ 

ブッダは 受け取ることを ”拒否” していたのです。パー





さらには バラモン教での儀式で ”供物を下げる行為” というのは・・・

”高貴な人” に 対して 行うべきですが・・・

ブッダは その ”高貴な人” というのは・・・

実際に この世界には ”ほとんどいない” ことを ”暗示” していたようです。

だから バラモン教の儀式は ”無意味” であると 考えていたのです。ひらめき電球





皆さまも ここでの内容を よく お考えになれば 理解されますが・・・

”高貴な人” というのは・・・

人間としての “究極の完成形” が 示されているのであり・・・

それは 並大抵のことでは 実現されないことも わかってきます。 

さらには ブッダ自身も 当時は ”修行中の身” なのであって・・・

今の状態では ”高貴ではない” と ”自覚” しているのです。

だから 供物を 受取ることを ”拒否” していたのです。

それゆえに この世界で ”謝礼” を 受けることなどは・・・

”身の程知らずの行為” であると 考えられるわけです。ガーン





しかし 現在の 日本における 仏教というのは・・・

”お経を唱えて 布施を受ける” という習俗に 完全に 染まっています。

これは 2500年前に ブッダが 言っていたように・・・

それは まったく ”無意味” なのであり・・・

僧侶たちによる ”身の程知らずの行為” であるとも 思われます。

これが 現在の 日本の仏教が抱えている ”重大な問題点” であると 考えられます。ドクロ





それゆえに 日本の仏教は ”形式的な儀式” に 終始することになり・・・

信者たちも ”仏教の本質” に 触れることが 極めて 難しくなり・・・

その結果 仏教に対して ”無力である” と 感じるようになり・・・

最近では ”信者の数” も 年々 ”減少する” ことが 起こっているようです。ダウン






私たちは 今後も 仏教や 他の宗教において・・・

少なからずの ”お金” などを 支払って・・・

”高尚な僧侶” に “説法” を してもらったり・・・

あるいは ”お経” などを ”唱えてもらった” としても・・・

それは まったく ”無意味” であることを ここで 自覚すべきのようです。ガーン

 


 
つまり 私たちは ”本来の仏教” としての・・・

”ブッダの教え” を ここで 正確に理解する 必要があるのです。

そして ブッダが その教えの中で ”究極の目的” としていた・・・ 

私たちが この世界で ”苦しみ” から ”完全に解放される” ためには・・・虹



 

私たちは ”自分自身” が ”高貴な人” としての・・・

”完成された人間” に なることが 必要なのです。

それが 仏教でいえば ”全き人” としての ”如来(にょらい)” なのであり・・・ 

私たちは 寺院などで ”如来像(にょらいぞう)” を 崇拝するのではなく・・・ 

”自分自身” が ”如来になる” ことが 必要なのです。目


    




皆さまも ここで 本来の仏教である ”ブッダの教え” を 慎重に 学ばれて・・・

この人生で ”なすべきこと” について・・・

ここで 深く お考えになってみては いかがでしょうか?ひらめき電球







私たちは ”ブッダの教え” を 深く 理解することによって・・・

そして ”仏教の本質” を 知ることによって・・・

”自分自身” を 本当の意味で ”完成” させて 参りたいですね。ニコニコ
















(※) 過去記事での 原始仏典 スッタニパータにおける 同類の内容であった・・・

   ”ブッダの教え 報酬を 受けてはならない” の 記事は こちらです 星