こんにちはわんわん




人間とは ”何のために 生きているのか?” ・・・

それは 私たちにとっての “核心的な問題” であると 考えられます。

そして 世界の 歴代の思想家や 哲学者などは・・・

それについて さまざまな 考察を 残してきました。本




そして 仏教の開祖であった ゴータマ・ブッダも・・・

それについて 深く考えていました。

そして 彼の 人間としての ”生命観” というものが・・・

”原始仏典 スッタニパータ” の中にも 示されています。星




今回 このブログでは・・・

スッタニパータ 第三章 第二節の ”つとめはげむこと” について 考えます。

その内容は ブッダが 仏教を成立させる 以前の段階での・・・ 

“苦行(くぎょう)時期” での 逸話が 示されています。

そこでは ブッダと ”悪魔ナムチ” との 対話が 描かれています。悪魔




それは 一見 悪魔ナムチが 言っていることが・・・ 

現代に生きる 私たちにとっても “正論” であると 思われます。

しかし それに対して ブッダは 真っ向から ”否定する” ことになるのです。

ここに ブッダの思想の ”核心” が 見えてくることになります。ひらめき電球 




ここでの内容も とても 長いので・・・

巻末の注釈にしたがって “要約した内容” を 示します。

皆様も 原典の “ブッダのことば スッタニパータ (岩波書店版)” とともに

ここでの記事を お読みください。本




それでは 以下が 第三章 第二節 ”つとめはげむこと” の 内容です。




ゴータマ・ブッダが 仏教を成立させる以前の ある時期に・・・

インドにあった ネーランジャラー河 の ほとりで・・・

”安穏” を 得るために つとめ 努力して ”瞑想” している時に・・・

”悪魔ナムチ” が 修行していた ブッダの前に 現れて・・・

”憐れみ(あわれみ)” を 持って こう言ったのである。




 あなたは 痩せて 顔色も悪い。 あなたの ”死” が 近づいた。

 あなたが 死なないで 生きられる割合は 千に一つの割合だ。

 きみよ 生きよ。 生きた方が よい。

 ”命” あってこそ ”善行(ぜんぎょう・功徳)” を なすことも できるのだ。

 あなたが ヴェーダの学生として ”清らかな行い” を なして

 聖火に 供物をささげてこそ 多くの ”功徳(くどく)” を 積むことができる。

 “苦行(くぎょう)” に 励んだところで 何になろうか?

 (あなたの考えている) ”つとめ励む道” は 行き難く 行い難く 達し難い。




悪魔ナムチが そう語った時 ブッダは 次のように告げた。


 
 怠け者の親族よ。 悪しき者よ。 

 汝は ”世間(世俗)の善業(ぜんぎょう・よい行い)” を 求めて ここに来たが

 私には その ”世間の善業” を 求める必要は 微塵(みじん)もない。

 悪魔は ”善業の功徳(くどく)” を 求める人々に 語るがよい。


 

 私には ”信念” があり ”努力” があり また ”智慧(ちえ)” がある。

 このように 専心している私に・・・

 汝はどうして ”生命を保つ” ことを 尋ねるのだ?

 
 

 ”励み(はげみ)” から 起こる風 は 河の流れも 涸らすだろう。 

 ひたすら 専心している 私の ”身体の血液” も 

 (同じように) 涸れることになるだろう。



 
 ”身体の血液” が 涸れれば

 ”肉(自分の肉体)” も 落ちて(なくなって)

 (自分の) こころは ますます 澄んでくる。 

 わが ”信念” と ”智慧” と ”統一したこころ” は

 ますます ”安立” するのだ。

 私は このように ”安住” しており ”最大の苦痛” を 受けているのであるから。

 (ブッダが当時 ”苦行” していたことを 意味します)

 私のこころは ”諸々の欲望” に 魅かれることはない。

 見よ 私の心身の 清らかなことを。




 悪魔である汝の ”軍隊” とは・・・

 ”欲望”  “嫌悪”  ”飢え”  ”妄執(執着)”・・・

 ”ものうさ(無気力)”  “睡眠”  “恐怖”・・・

 “疑惑”  ”みせかけ(中身のないこと・偽善)”  “強情(頑固)”・・・ 

 ”誤って得られた 利益・名声・尊敬・名誉”・・・

 ”自分をほめること”  “他人を軽蔑すること”・・・

 これらが ”悪魔の攻撃軍” である。
 
 

 ”勇者” でなければ それらには 打ち勝つことができない。

 ”勇者” とは それらに 打ち勝って 楽しみ(満足)を 得るのだ。

 

 
 私が それらの軍隊に 打ち勝つか あるいは 降参するか?・・・

 この場合 “(自分の)命” は どうでもよい。

 私は 敗れて 生きるよりは 戦って 死ぬ方が ましである。



 
 ある バラモンの修行者たちは ”悪魔の軍隊” の中に 埋没してしまい・・・

 姿が 見えなくなった。

 彼らは ”徳のある人々” が ”行くべき道” も 知らないのである。

 (”行くべき道” とは ”輪廻からの解脱の道” を 意味します)



 
 ”悪魔の軍隊” が 四方を 包囲したのであれば・・・

 私は 立ち迎えて その軍隊と 戦おう。

 私は この場所から 退きはしない。



 
 ”神々” でも ”世間(世俗)の人々” も

 ”悪魔の軍隊” を 破ることは できないが・・・

 私は “智慧” によって ”悪魔の軍隊” を 打ち破るだろう。

 生の土器を 石で 砕くがごとく。 (容易にという意味)



 
 私は 自分の思考を 制して よく 念じて 注意しながら・・・

 国々を ”遍歴(へんれき・定住せず歩き回る修行)” を しよう。

 私の教えを聞く 多くの人々を 導きながら。

 (ブッダが その教えを広める 決意表明です)


 
 
 かれらは ”無欲” である 私の教えを 実行しつつ・・・

 怠ることなく 専心している。

 かれらは そこで ”憂いのない境地” へ 赴けるだろう。

 (ニルヴァーナ・涅槃寂静の境地を 意味しています)




悪魔ナムチが 言った。


 われは 七年間も ブッダに つきまとっていたが

 しかし よく気をつけている “正覚者(目覚めている者)” には

 つけこむ隙(すき)を 見つけることができなかった。



 それは まるで カラスが “脂肪色(肌色)の岩石” の 周囲を

 ここに 柔らかくて 美味しいものが あるだろうか? というように

 飛び回っていたような ものだった。

 (ブッダの意志は 岩石のように強固であった という意味)

 そして 悪魔は ゴータマ・ブッダに 厭きる(あきる) ことになり

 意気消沈して 消え失せたのであった。




以上が 第三章 第二節 ”つとめはげむこと” の 要約の内容でした。本




タイトルにもあります “つとめ励む” というのは・・・

註釈によれば “精神的” な ”努力精励” を 意味しています。

つまり 人間にとっての ”内面的な努力” が 大切である ということです。ドキドキ




仏教の開祖であった ゴータマ・ブッダは・・・

”家族” が ありながら “出家” することになり・・・

その後 大変に厳しい 修行生活に入りました。

その理由とは ”人間は なぜ 苦しむのか?”・・・

その ”原因” を 知りたい・・・と 思ったからです。

そして その 修行生活というのは・・・

まさに ”死と隣り合わせ” の “苦行(くぎょう)” だったのです。ガーンあせる




そんな中で 悪魔であるナムチが そこにやってきました。

そして ”苦行” によって 肉体が 極めて衰弱していた ブッダを見て・・・

このままでは 死んでしまうから そんなことは やめて・・・

“自分の命” を 大切にしなさい・・・と 言ったわけです。悪魔




しかも その意味とは・・・

バラモン教における ”善行” を 積むためであり・・・

それは ”輪廻転生(りんねてんしょう)” からの ”脱出” を 目的にしていました。 

つまり ブッダも ”同じこと” を 説いていたのであり・・・

悪魔ナムチが 言っていたことは ほとんど “正論” だったわけです。得意げ





しかし ブッダは そこで 悪魔ナムチが 言っていたことに対して・・・

それは ”怠け者” や ”悪い者” の 言い分であると はねつけました。

そこに ここでの内容の ”核心” が 読み取れることになります。ひらめき電球





それまでの バラモン教における ”善行” というものは・・・

”外面的” な ”清らかな行い” に 励むこと・・・

あるいは ”聖火に 供物をささげる” というような・・・

“儀式的・形式的な行い” に とどまっていました。

当時の ”一般的な考え方” では それで ”十分” なのであり・・・

それ以上のことは ”不必要” であると 考えられていたようです。パー





つまり 悪魔ナムチが 言っていたことは・・・ 

当時の バラモン教信者の ”大多数” が 信じていたことであり・・・

それが 当時のインド社会の ”通念” であったと 考えられます。

それで ナムチは ブッダに対して ”自分の命を 守りなさい” などと・・・

ブッダに対して ”あたりまえ” のように ”説教” していたわけです。悪魔





しかし ブッダは それに対して ”完全否定” を しました。

つまり ブッダが その時 ”何を 知っていたのか?” といえば・・・ひらめき電球




それは 私たち人間は ”死後の来世” において・・・

”人間” や ”他の生物” に ”生まれ変わり続ける” という・・・

”輪廻転生(りんねてんしょう)” の サイクルからは・・・

”これまで通りのこと” を やっていては・・・

まったく ”脱出できない” ことを ブッダは 知っていたのです。目





つまり ブッダは ある意味 “正論” を 言っていた ナムチに対して・・・

私たち人間を ”人間” や ”生物” に・・・

”縛り付ける悪魔” として 考えていたのです。悪魔





さらに ブッダは ”悪魔の攻撃軍” として 考えたのは・・・

”さまざまな欲望”  “嫌悪感”  ”飢えを感じること”  ”妄執 (愚かな執着心)”・・・

”ものうさ (無気力)”  “睡眠 (三大欲のひとつ)”  “恐怖 (おそれる心)”・・・

“疑惑 (疑う心)”  ”みせかけ (中身のないこと・偽善)”  “強情(頑固)”・・・ 

”誤って得られた 利益 (お金)・名声・尊敬・名誉 (人間的な評価)”・・・

”自分をほめること”  “他人を軽蔑すること”・・・などでした。ドクロ

  




そして 私たちが これらのことに ずっと “縛られる” ことになれば・・・

“永遠” に ”輪廻転生のサイクル” からは 脱出することができず・・・

”生物としての苦しみ ( 生・老・病・死 )” からも・・・

“永遠” に 脱出することが できません。ドア×





つまり ブッダにとっての ”自分の命” というのは・・・ 

”人間としての自分” に ”執着するため” に あったのではなく・・・

”悪魔の軍隊” と ”戦うため” に あったのです。目



 

そのために ブッダは・・・
 
自分自身の ”身体の血液” が 涸れることも・・・

さらには ”自分の肉体” を 失うことも 平気でした。

それは 自分自身の ”こころ” を 最重視していたからです。ドキドキ

つまり ブッダは ”外面的” な ”肉体” や ”儀式” よりも・・・

自分自身の ”信念” や ”智慧” や ”統一したこころ” を 重視しました。

そして それによって ”ブッダの内面” は ”安立” していたのです。

それが ”憂いのない境地” だったのであり・・・

それこそが ブッダが 目指した ”ニルヴァーナ・涅槃寂静の境地” だったのです。虹





ブッダは その後 ”苦行” を やめることになりました。

それは “苦行” を どれだけ 続けたとしても・・・

”平穏の境地” には ”到達できない” ことを 知ったからです。

そして その後 ブッダは ”中庸(ちゅうよう)” といわれる・・・

”苦痛と快楽の中間” を 行くことが ”正しい道” であることを 悟りました。てんびん座


 

 
そして 私たちが・・・

その ”正しい道” を 行く 意味とは 何なのか?・・・

それは 私たちが この ”宇宙” において・・・

”人間” や ”生物” として ”苦しみ続ける” という状態から・・・

”完全に脱出できる” ことを 意味するのです。ひらめき電球





それによって 私たちは これまでの さまざまな ”苦しみ” から ・・・

”完全に解放される” ことになり・・・

宇宙の中での ”次のステップ” に ”移行できる” と 考えられます。

それが ”ブッダの教え” の ”究極の目的” であると 考えられます。目






”人間の命” というものは ”大事にすべきである”・・・

これは 現代社会においても 何も疑いのない ”社会通念” です。

しかし スッタニパータ 第三章 第二節に 書かれている内容は・・・

私たちが これまで考えてきた “常識的な通念” を・・・

はるかに ”超越している” ことが 理解されてきます。星





それは 私たちの “命の意味” というものを・・・・

自分自身の ”欲望の実現” が ”目的” である・・・などと 考えていれば・・・ラブラブ

私たちは ”永遠” に ”苦しみ続ける” ことに なってしまいます。しょぼん





さらには この人生で・・・

”苦しみから逃れる” ために “自殺” したとしても・・・

それは まったく ”無意味” であり・・・

さらに ”来世” では ”それ以上に苦しむ” ことが 理解できます。(※)ドクロ





それは ”ブッダの教え” を 理解すると わかってきますが・・・

私たちが ”人間” として 生きている ”目的” というのは・・・

“こころの平穏” を 実現するためである・・・と 考えられるからです。ドキドキ

それが 実現される前に この人生で ”死” を 迎えたとしても・・・

私たちは ”死後の来世” を 含めて ”永遠に苦しむ” ことになります。

そのことを 私たちは ”ブッダの教え” から 読み取る 必要があるようです。目






仏教では 生きとし生けるもの ”すべての命” を・・・

”大切にすべきである” と 説かれています。

その意味とは ”すべての生物” が・・・

”輪廻転生からの脱出” を ”目標にしている” からであり・・・

”すべての生物” に ”生きる目的” が あるからです。星





私たちが そのことを 理解できると・・・

”すべての命” を ”大切にすべきである” ということが 自覚され・・・

”すべての命の営み” を ”邪魔してはならない” ということも 自覚されるのです。ひらめき電球






その結果 この ”人間世界” において・・・

さらには ”世界全体” においても・・・ 

“平和な世界” が 自ずと 実現されると 考えられます。虹





 
私たち 日本人としても・・・

今後の 人間世界で さまざまな ”危機” に 直面することが 考えられます。

皆様も その際には スッタニパータ 第三章 第二節 の内容を 思い出されて・・・

ご自身にとっての ”最善の行動の指針” に されてみては いかがでしょうか?星







私たちは この世界で ”自分自身” が・・・

”何のために 生きているのか?” について・・・

さらには ”他者” や ”他の生物” も・・・

”何のために 生きているのか?” について・・・

ここで 改めて 深く 考えてみたいですね。ニコニコ
















(※)”ブッダの教え” から ”自殺” について 考えました 記事である・・・

   “自殺しては いけない理由” の 記事は こちらからどうぞ星