こんにちは
20世紀に入っての ”実存主義思想” での 哲学者には
まず ドイツの ”ハイデッガー” が 挙げられます。
マルティン・ハイデッガー(1889~1976年)は
敬虔な カトリック教徒の 家庭に生まれ
初めは ”神学” を 学び その後 ”イエズス修道会” にも入りましたが
その後 脱退し ”哲学を 専攻するようになりました。
しかし 1930年前後から “反ユダヤ主義” に 傾き始め
やがて ドイツの フライブルク大学の ”総長” になると
なんと あの ”ナチス” に 入党し
”ナチズム” を 主体にした ”大学改革” を 行いますが
学内は 大きく混乱し 責任をとって 辞任もしました。
彼が ”ナチス” に 入ったのは
彼の思想を ”総統ヒトラー” に ”指導” して
ナチスを 自分の考える方向に 向かわせるという ”野心” があったとも いわれています。
ものすごい 人物でしたね。(笑)
しかし 第二次大戦後 彼は ナチスに 理由はともあれ ”加担” したことで
その 責任を 追及されて 一時期 社会的にも 窮地に陥りましたが
やがて なんとか復権して 大学の名誉教授にも なったという
波乱に満ちた 生涯だったようです。
”ハイデッガー” の 基本思想とは・・・
ハイデッガーは ”人間のありかた” には 4つあると 定義しました。
1・世界的存在 ・・・・・他人や環境に 気を配る存在であること。
2・死への存在 ・・・・・時間的にも ”有限” な 存在であること。
3・投企的存在 ・・・・・世界の中に ”投げ出される” が
不安と 心配の中でも 未来に向かって生きる。
4・現存在 ・・・・・個性のない ”平均人” である。
”非本来的” な 生き方をする・・・”日常人” である。
これらの意味は・・・
人間とは まず 周囲の 他人や 環境に ”適応” しようとする
”世界的概念” を 持っている 存在です。
しかし 別の角度からは・・・
人間は 周囲に ”合わせよう” として ”個性” を 失い
他のみんなと ”同じように生きよう” とする 存在なのです。
そして 人間とは “有限” な ものであり
結局は ”死に至る存在” として 常に ”不安” です。
しかし ”不安” を 見つめて
絶えず それを ”意識” し続ける ”緊張” には 耐えられません。
そこで 人間は 普段は ”周囲の出来事” で ”気を紛らわして”・・・
平均的な ”日常人” として 生きることで
”死の不安” から ”逃避” しようとします。
しかし このような ”日常性への逃避” が
人間の 本来的な ”真実の生き方” である
”実存” ではない・・・のです。
そこで この ”実存” を 取り戻すには・・・
人間が この世界に ”投げ出された”・・・ならば
”死” に対する ”不安な存在” であることを ”積極的に 認めて”・・・
”世間への没入” から 自己を 引き戻して
”不安” を ”直視” する 生き方を 選ぶべきなのです。
つまり ”不安” を・・・
”正面から 引き受けて” 決して ”回避せず”
”主体的責任” において ”耐え抜く” ことが
人間の ”本来の生き方” であり ”実存” なのだ・・・
そう ハイデッガーは 説いたのです。
私たちの ”日常生活” が
”人間本来の生き方” からの ”逃避” であるとした 考え方は
とても 厳しい 思想ですよね。
しかし 周囲の人々が ”あたりまえ” のように 行っていることが
人間が 本来 ”進むべき道ではない” ことも 多いわけです。
それが いわゆる ”快楽” による ”ごまかし” なのです。
”不安” を 打ち消すには ”快楽” が 効果的なのですが
その 生活スタイルを まわりが みんなやっているから・・・と言って
積極的に ”正当化” していると・・・
やがて ”快楽中毒” となって ”人間の道を 踏み外す” ことにもなっていますね。
”みんなと 同じことを やっていれば 安心だ”・・・・・
それが いわゆる ”日常人” なのであり
その ”価値基準” が 人間を ”間違った方向” に 進ませる 危険性があるのです。
ハイデッガーは それについて 厳しい視点で ”警告” しているような気がします。
私たちは ”不安” になった時に
何か 別のことをして ”ごまかす” のではなく・・・
その ”不安の正体” を 正面から 見つめて
それを ”分析” したり その ”解消策” を 見極めたりして・・・
自分の ”責任” として ”不安” に 取り組むことが
人間として ”生きる意味” になるようですね。
思想家というものは・・・
その人が 生きた時期によって その社会から 大きな影響を受けるわけです。
ハイデッガーが 当時の ”ナチス政権” に 入り込んだのも
それなりの理由が あったわけですが・・・
彼の思想を 見る限りでは
決して ”邪心” から 起こした行動とも 思えないようです。
しかし 歴史事実は “反ユダヤ主義” が その後の ”ユダヤ民族の虐殺” を招き
人類史上の ”最大の悲劇” を もたらしたわけです。
ハイデッガーが それを 予期していたか どうかは 分かりませんが・・・
人間とは 自分自身が ”まっとう” と 思っていても
その後 何らかのきっかけで ”異常な領域” に 引きずり込まれることもあります。
私たちは この人生の中では
”自分が いったい どこに向かっているのか?”・・・を
絶えず 見極める必要が ありますね。
次回は ”実存主義思想” での
”ヤスパースの思想” を 考えます。
20世紀に入っての ”実存主義思想” での 哲学者には
まず ドイツの ”ハイデッガー” が 挙げられます。
マルティン・ハイデッガー(1889~1976年)は
敬虔な カトリック教徒の 家庭に生まれ
初めは ”神学” を 学び その後 ”イエズス修道会” にも入りましたが
その後 脱退し ”哲学を 専攻するようになりました。
しかし 1930年前後から “反ユダヤ主義” に 傾き始め
やがて ドイツの フライブルク大学の ”総長” になると
なんと あの ”ナチス” に 入党し
”ナチズム” を 主体にした ”大学改革” を 行いますが
学内は 大きく混乱し 責任をとって 辞任もしました。
彼が ”ナチス” に 入ったのは
彼の思想を ”総統ヒトラー” に ”指導” して
ナチスを 自分の考える方向に 向かわせるという ”野心” があったとも いわれています。
ものすごい 人物でしたね。(笑)
しかし 第二次大戦後 彼は ナチスに 理由はともあれ ”加担” したことで
その 責任を 追及されて 一時期 社会的にも 窮地に陥りましたが
やがて なんとか復権して 大学の名誉教授にも なったという
波乱に満ちた 生涯だったようです。
”ハイデッガー” の 基本思想とは・・・
ハイデッガーは ”人間のありかた” には 4つあると 定義しました。
1・世界的存在 ・・・・・他人や環境に 気を配る存在であること。
2・死への存在 ・・・・・時間的にも ”有限” な 存在であること。
3・投企的存在 ・・・・・世界の中に ”投げ出される” が
不安と 心配の中でも 未来に向かって生きる。
4・現存在 ・・・・・個性のない ”平均人” である。
”非本来的” な 生き方をする・・・”日常人” である。
これらの意味は・・・
人間とは まず 周囲の 他人や 環境に ”適応” しようとする
”世界的概念” を 持っている 存在です。
しかし 別の角度からは・・・
人間は 周囲に ”合わせよう” として ”個性” を 失い
他のみんなと ”同じように生きよう” とする 存在なのです。
そして 人間とは “有限” な ものであり
結局は ”死に至る存在” として 常に ”不安” です。
しかし ”不安” を 見つめて
絶えず それを ”意識” し続ける ”緊張” には 耐えられません。
そこで 人間は 普段は ”周囲の出来事” で ”気を紛らわして”・・・
平均的な ”日常人” として 生きることで
”死の不安” から ”逃避” しようとします。
しかし このような ”日常性への逃避” が
人間の 本来的な ”真実の生き方” である
”実存” ではない・・・のです。
そこで この ”実存” を 取り戻すには・・・
人間が この世界に ”投げ出された”・・・ならば
”死” に対する ”不安な存在” であることを ”積極的に 認めて”・・・
”世間への没入” から 自己を 引き戻して
”不安” を ”直視” する 生き方を 選ぶべきなのです。
つまり ”不安” を・・・
”正面から 引き受けて” 決して ”回避せず”
”主体的責任” において ”耐え抜く” ことが
人間の ”本来の生き方” であり ”実存” なのだ・・・
そう ハイデッガーは 説いたのです。
私たちの ”日常生活” が
”人間本来の生き方” からの ”逃避” であるとした 考え方は
とても 厳しい 思想ですよね。
しかし 周囲の人々が ”あたりまえ” のように 行っていることが
人間が 本来 ”進むべき道ではない” ことも 多いわけです。
それが いわゆる ”快楽” による ”ごまかし” なのです。
”不安” を 打ち消すには ”快楽” が 効果的なのですが
その 生活スタイルを まわりが みんなやっているから・・・と言って
積極的に ”正当化” していると・・・
やがて ”快楽中毒” となって ”人間の道を 踏み外す” ことにもなっていますね。
”みんなと 同じことを やっていれば 安心だ”・・・・・
それが いわゆる ”日常人” なのであり
その ”価値基準” が 人間を ”間違った方向” に 進ませる 危険性があるのです。
ハイデッガーは それについて 厳しい視点で ”警告” しているような気がします。
私たちは ”不安” になった時に
何か 別のことをして ”ごまかす” のではなく・・・
その ”不安の正体” を 正面から 見つめて
それを ”分析” したり その ”解消策” を 見極めたりして・・・
自分の ”責任” として ”不安” に 取り組むことが
人間として ”生きる意味” になるようですね。
思想家というものは・・・
その人が 生きた時期によって その社会から 大きな影響を受けるわけです。
ハイデッガーが 当時の ”ナチス政権” に 入り込んだのも
それなりの理由が あったわけですが・・・
彼の思想を 見る限りでは
決して ”邪心” から 起こした行動とも 思えないようです。
しかし 歴史事実は “反ユダヤ主義” が その後の ”ユダヤ民族の虐殺” を招き
人類史上の ”最大の悲劇” を もたらしたわけです。
ハイデッガーが それを 予期していたか どうかは 分かりませんが・・・
人間とは 自分自身が ”まっとう” と 思っていても
その後 何らかのきっかけで ”異常な領域” に 引きずり込まれることもあります。
私たちは この人生の中では
”自分が いったい どこに向かっているのか?”・・・を
絶えず 見極める必要が ありますね。
次回は ”実存主義思想” での
”ヤスパースの思想” を 考えます。