こんにちは
マルクス主義の 継承・発展として
”ロシア革命” の 指導者である ”レーニン” が 展開した
”マルクス・レーニン主義” というものがありました。
ウラジーミル・レーニン(1870~1924年)は
当時のロシアでは 極めて ”秀才” と言われた 人物でしたが
その兄が ロシア皇帝の 暗殺を企てたとされて ”処刑” され
姉も ”追放” されるという 不幸な境遇に遭いました。
そして 彼は ”反帝政の姿勢” を 取り始めることになり
その後 積極的な 政治活動に 身を投じて行ったのです。
レーニンは マルクスの ”唯物史観” に 基づき
資本主義社会は やがて 巨大な ”独占資本” を 生み出し
それは 単に 国内の 労働者階級と 対立するだけでなく
やがて 後進地域を “植民地化” することになり
”帝国主義” へと 転化することになる・・・と 主張しました。
しかも 自国が 帝国主義戦争を 起こすに至ったら・・・
労働者は 自国の戦争での 勝利のために 闘うのではなく、
戦争に ”乗じて” 階級闘争を激化させ
”現体制を打倒” するために 闘うべきだとしました。
つまり ”自国の革命の きっかけにせよ”・・・なのです。
当時のヨーロッパでは ”第一次世界大戦(1914~18)” が ありましたが
これが その ”帝国主義による戦争” であると とらえて
レーニンは 上記のの論理によって 第一次世界大戦時に
ロシアを 戦争から ”離脱” させたのでした。
そして 1917年に ”食糧配給の改善” を求めて ”2月革命” が 起こると
ブルジョア側(臨時政府) と プロレタリア側(ソビエト)の 2つの指導機関が 登場しますが
レーニンは プロレタリア側の ”ソビエト” を 支持して
その後 レーニンは ”10月革命” を 起こして
”臨時政府” を 倒して ”ソビエト” が 政権をとるのです。
その時に レーニンが書き上げた 著書が
”国家と革命” でした。
その内容は・・・
レーニンにとって 国家とは ”階級支配の原因” であり
国民らを ”社会から疎外する権力” が 国家だと 考えたのです。
したがって 国家とは ”階級支配の機関” であり
そして このような国家は ”革命” によって
プロレタリアートにより ”廃絶” されるのである と 主張したのです。
また 同時に 国家の一部である ”民主主義” も ”廃絶” されなければならない と説き
マルクスの 初期の著作にある ”人道主義的な側面” を レーニンは 無視しました。
レーニンは ”革命” とは ”選挙” に基づいた 政権交代ではなく
”暴力革命” でなければならない・・・と 主張したのです。
そして 一方で ”ソビエト政府” は 政権発足と同時に
”秘密警察” として ”反革命 取締り非常委員会” を 創設して
反政府派の 弾圧を始めたのです。
そして 反対派への 数多くの ”粛清(処刑)” が 始まりました。
その後 レーニンは ”暗殺未遂事件” に 遭い・・・
体に 数発の銃弾を受けて 大けがをしてしまい
それがもとで 病弱となり その後の活動に 悪影響を 及ぼしました。
そして 1922年になり レーニンの 後継者的存在である
”スターリン” が 登場してくると
レーニンの考えと ”確執” が 生じ始めて 2人の関係が悪化し
その後 1924年に レーニンは ”非業の死” を 遂げてしまうのでした。
このような ”レーニンの思想” は その後 どう評価されたのでしょうか?
プロレタリアート(労働者階級)により ”廃絶される” とされていた 国家機構は
実際には レーニンを中心とする ”独裁政権体制” に 置き換わっただけで、
これまで以上に 強力な ”抑圧装置” として
国民の監視・弾圧を 行うことになったのです。
実際に レーニンは ”国家と革命” の 著書の中で
資産家や知識人に対して 人民の大多数が ”自主的に統制” を行えば
この統制は ”真に普遍的・一般的・全人民的なもの” となり
この統制を 避けることはできず 身の置き所が無くなるだろう・・・と予言していました。
つまり 国民全員が ”監視者” となるので 逃げ場はない・・・ということです。
そして ロシアの軍人であり 歴史家でもあった
”ドミトリー・ヴォルコゴーノフ” は ”国家と革命” を 評して
”共産主義のユートピア” を できるだけ ”もっともらしく書いたもの” であり
知識のみせびらかし的な 不自然で 実生活から遠いものだと 批判し
ソ連以降の ”全体主義体制” の 元凶の 一つとなった・・・と 述べました。
つまり マルクスの ”共産主義” を めざした ”国家の現実” とは・・・
この ”レーニンの時点” においても
権力者が ただ ”交代” するだけで
民衆は ”厳しい支配” に さらされることに 変わりはなかったのです。
そして レーニンの 後を継いだ ”スターリン” によって
ソビエト連邦の民衆は ”地獄の苦しみ” の中へと 導かれてしまったのです。
”革命” という 暴力や 武力による 政治手段は・・・
結果的に 人類に ”大きな悲劇” を もたらすようですね。
これが ”歴史から学ぶ” 教訓であるようです。
次回は ”レーニンの思想” を 受け継いで 誕生した
”ソビエト連邦” の 現実について 考えます。
マルクス主義の 継承・発展として
”ロシア革命” の 指導者である ”レーニン” が 展開した
”マルクス・レーニン主義” というものがありました。
ウラジーミル・レーニン(1870~1924年)は
当時のロシアでは 極めて ”秀才” と言われた 人物でしたが
その兄が ロシア皇帝の 暗殺を企てたとされて ”処刑” され
姉も ”追放” されるという 不幸な境遇に遭いました。
そして 彼は ”反帝政の姿勢” を 取り始めることになり
その後 積極的な 政治活動に 身を投じて行ったのです。
レーニンは マルクスの ”唯物史観” に 基づき
資本主義社会は やがて 巨大な ”独占資本” を 生み出し
それは 単に 国内の 労働者階級と 対立するだけでなく
やがて 後進地域を “植民地化” することになり
”帝国主義” へと 転化することになる・・・と 主張しました。
しかも 自国が 帝国主義戦争を 起こすに至ったら・・・
労働者は 自国の戦争での 勝利のために 闘うのではなく、
戦争に ”乗じて” 階級闘争を激化させ
”現体制を打倒” するために 闘うべきだとしました。
つまり ”自国の革命の きっかけにせよ”・・・なのです。
当時のヨーロッパでは ”第一次世界大戦(1914~18)” が ありましたが
これが その ”帝国主義による戦争” であると とらえて
レーニンは 上記のの論理によって 第一次世界大戦時に
ロシアを 戦争から ”離脱” させたのでした。
そして 1917年に ”食糧配給の改善” を求めて ”2月革命” が 起こると
ブルジョア側(臨時政府) と プロレタリア側(ソビエト)の 2つの指導機関が 登場しますが
レーニンは プロレタリア側の ”ソビエト” を 支持して
その後 レーニンは ”10月革命” を 起こして
”臨時政府” を 倒して ”ソビエト” が 政権をとるのです。
その時に レーニンが書き上げた 著書が
”国家と革命” でした。
その内容は・・・
レーニンにとって 国家とは ”階級支配の原因” であり
国民らを ”社会から疎外する権力” が 国家だと 考えたのです。
したがって 国家とは ”階級支配の機関” であり
そして このような国家は ”革命” によって
プロレタリアートにより ”廃絶” されるのである と 主張したのです。
また 同時に 国家の一部である ”民主主義” も ”廃絶” されなければならない と説き
マルクスの 初期の著作にある ”人道主義的な側面” を レーニンは 無視しました。
レーニンは ”革命” とは ”選挙” に基づいた 政権交代ではなく
”暴力革命” でなければならない・・・と 主張したのです。
そして 一方で ”ソビエト政府” は 政権発足と同時に
”秘密警察” として ”反革命 取締り非常委員会” を 創設して
反政府派の 弾圧を始めたのです。
そして 反対派への 数多くの ”粛清(処刑)” が 始まりました。
その後 レーニンは ”暗殺未遂事件” に 遭い・・・
体に 数発の銃弾を受けて 大けがをしてしまい
それがもとで 病弱となり その後の活動に 悪影響を 及ぼしました。
そして 1922年になり レーニンの 後継者的存在である
”スターリン” が 登場してくると
レーニンの考えと ”確執” が 生じ始めて 2人の関係が悪化し
その後 1924年に レーニンは ”非業の死” を 遂げてしまうのでした。
このような ”レーニンの思想” は その後 どう評価されたのでしょうか?
プロレタリアート(労働者階級)により ”廃絶される” とされていた 国家機構は
実際には レーニンを中心とする ”独裁政権体制” に 置き換わっただけで、
これまで以上に 強力な ”抑圧装置” として
国民の監視・弾圧を 行うことになったのです。
実際に レーニンは ”国家と革命” の 著書の中で
資産家や知識人に対して 人民の大多数が ”自主的に統制” を行えば
この統制は ”真に普遍的・一般的・全人民的なもの” となり
この統制を 避けることはできず 身の置き所が無くなるだろう・・・と予言していました。
つまり 国民全員が ”監視者” となるので 逃げ場はない・・・ということです。
そして ロシアの軍人であり 歴史家でもあった
”ドミトリー・ヴォルコゴーノフ” は ”国家と革命” を 評して
”共産主義のユートピア” を できるだけ ”もっともらしく書いたもの” であり
知識のみせびらかし的な 不自然で 実生活から遠いものだと 批判し
ソ連以降の ”全体主義体制” の 元凶の 一つとなった・・・と 述べました。
つまり マルクスの ”共産主義” を めざした ”国家の現実” とは・・・
この ”レーニンの時点” においても
権力者が ただ ”交代” するだけで
民衆は ”厳しい支配” に さらされることに 変わりはなかったのです。
そして レーニンの 後を継いだ ”スターリン” によって
ソビエト連邦の民衆は ”地獄の苦しみ” の中へと 導かれてしまったのです。
”革命” という 暴力や 武力による 政治手段は・・・
結果的に 人類に ”大きな悲劇” を もたらすようですね。
これが ”歴史から学ぶ” 教訓であるようです。
次回は ”レーニンの思想” を 受け継いで 誕生した
”ソビエト連邦” の 現実について 考えます。