2011年が終わりを告げようとしています。考えてみればこのブログを始めたのが2010年12月27日なので、ブログ開始から早1年間が経過しようとしています。

さて、2011年は個人的にも色々と変化のある年でした。山形の寒暖の差に苦しみながら日々をやり過ごしていた点は前年と変わらないのですが、ブログを始めたこと、Giftを演奏したこと、(ついに)液晶テレビを買ったこと、再来年の米国留学が決まったことなど大なり小なり変化のある年だったように思います。

世間に目を移すと国内では東日本大震災が、海外ではユーロ危機やタイの大洪水、アラブの春、金正日やスティーブジョブスの死去など、歴史的なイベントが目白押しの年でした。東日本大震災にしてもユーロ危機にしてもアラブの春にしても、歴史的には100年に1回起こるくらいのものなのですが、こうした歴史的イベントがより短いタームで起こるようになっているのが21世紀です。インターネットの進展により世界ドラマの展開が速くなっただけでなく、天変地異の動向まで早まっているように感じられます。後で見ればこうしたビッグイベントも、その他の大きな変革により、実は歴史的にたいしたインパクトを持たない可能性もありますし、実際すでにリーマンショックも多くの人の中では脳の片隅に仕舞われてセピア色の思い出に変わってしまっています。

ところで、福島の原発問題を受けてドイツのエネルギー政策が大きく舵を切ったり、リビアの問題で原油価格が高止まりしたり、金正日の死去でKOSPIが大幅に下落して世界の機関投資家が眠れない夜を過ごしたりしていて、グローバリゼーションが確実に進展していることを感じます。グローバリゼーションは確実に私達の生活に浸透しているのです。

一方、今の日本を見ているとTOEFLの点数はアジア最低レベルにあり相変わらず英語が苦手で、海外志向は弱く、企業のグローバル化は進行しているとは言い難い状況にあります。このままグローバリゼーションが進展するとますます日本はグローバル競争において劣勢を強いられるのではないかと危惧する声にも頷けます。

世はまさにグローバル戦国時代です。だからと言ってグローバル経済に組み込まれることにもリスクはあります。サブプライムローン問題により、機関投資家による新興国売りが、新興国におけるキャピタルフライトや通貨安をもたらしましたが、これは韓国や台湾など、より世界経済に組み込まれている経済圏が激しいボラティリティに苦しむこととなったものです。逆にインドネシアなどは力強い内需をもとにすぐに堅調な経済成長を取り戻していたりします。グローバル経済に組み込まれることは経済成長への近道ではありますが、長期的に見れば必ずしも望ましいわけではありません。

そして注目すべきなのは依然として国内取引が重要である点です。日本はGDP約500兆円の世界第3位の経済大国であるなか、輸出・輸入はそれぞれ60~80兆円くらいで、輸出入の差し引きである貿易収支は10兆円にも満たないものです。貿易が波及的に国内経済に与える影響は小さくありませんが、依然として国内取引が最重要である点に疑いの余地はありません。

また近年のグローバリゼーションの中で、情報や金は国境をまたいで自由に行き来するようになったし、モノもかなり輸送速度が向上し輸送コストも低くなっていますが、肝心の「人」については文化や言語の違いがあり、依然として国境が高いハードルとなっています。モノや金のように無機質なものと違い、人は血の通ったセンシティブな生き物なので、自分と同じような感覚を持つ人とのコミュニケーションを好みます。おそらく人は今後もグローバリゼーションが進展しにくいでしょう。

さて、ここまでグローバリゼーションについて説明してきましたが、以上のことから次のような仮説を立てることができます。

『グローバリゼーションは今後も一定程度進展するものの、完全なボーダーレスワールドは将来的にも実現されない。』

なので今後も世界中の色々な都市が人種のるつぼになるということは考えられないし、おそらく日本はこのまま単一民族国家としての道を進んでいくことでしょう。しかしそれはある種のグローバルスタンダードであり、ニューヨークやロンドンなど様々な人種が行き交いながら発展する都市と、日本人がほとんどの東京のような都市が並行して繁栄する世界になっていくのだと思います。つまり現在の形と大きくは変わらないのでしょう。

グローバリゼーションに組み込まれようとそうでなかろうと、優秀な血を引く日本人がきっとまたどこかで繁栄を謳歌することができると私は信じています。貿易制約や世界経済動向は制約条件に過ぎません。そうした環境要因がどのようなものであろうとも、大切なのは目の前の仕事にどれだけ多くの情熱を注ぎ、集中力を持続できるかです。将来的には、日本は再度フロンティアを切り開き、世界に確たる地位を築くことができるでしょうが、その状況に辿りつくまではもうしばらく時間がかかりそうです。幾らかの危機的な状況を経験するまではエンジンはかからないのでしょう。
日本農業は農業者の高齢化や後継者不足、耕作放棄地の増加、小規模農家による非効率な事業運営など問題が山積している状況である。筆者は農業の現状把握を行うため、今回地元零細農家で2日間の農業研修に参加した。農業の現状課題について考えたことを記したい。


高齢化・後継者不足

農業の大きな問題として次代を担おうとする若手農業者が少ないことが挙げられる。ゼロではないもののマスコミ報道における農業への注目度が相応に高いなか農業に積極的に取り組みたいと考える若者はほとんどいない。

農家はどうかと言えば必ずしも子どもに農業を引き継ぐことが望ましいとは考えておらず、やはり大企業や公務員など収入の安定した仕事を得ることを望んでおり、そうした親達のニーズに対して農業という産業は十分に答えられていないのが現状なのである。

そもそも、儲からない産業が衰退するのは必然であり、他の産業でも市場規模が小さくなれば企業の新卒採用者は減るし、自ずと後継者はいなくなるのである。農業だけでなく、繊維業や建設業など過去には一大産業を誇った業界も、国内で担うべき一定の役割を終えれば、必要とされる他の国で発展したり、比較優位な国へと産業が移行していくものであり、これは経済原則を考慮すれば当然の帰結である。

若手農業者の意欲をかきたて農業者の"若年化"を行うためには、農業が儲かる産業とならなければならない。現在の農業は国内で生産するより外国で生産を行った方が競争力のある比較劣位な産業となっているが、筆者は大規模化や機械化、低賃金労働力の活用、更には安定した政府支援により、儲かる農業とすることも可能であると考えている。ただし、農地や宅地、商業地が入り組んだ現在の土地利用の見直しが必要な他、所有権が分かれている農地の利用集積が進む政策の導入が必須である。

現在農業者所得の増加に有効なものとして、6次産業化が注目されている。6次産業化とは第1次産業だけでなく、食品加工業などの第2次産業や卸売業や観光業、外食業等の第3次産業へと展開し、「1 + 2 + 3 = 6」の合わせ技を目指すものである。しかし6次産業化は通常の企業で言うところの事業の多角化にあたり、相当な初期投資が必要となり財務状態が悪化することとなる他、農業を行なっているからと言って他の産業に展開していって成功する保証もない。事業の多角化については、単純に高いビジネスセンスが要求され、才気溢れた農業経営者であればすでに成功を収め、6次産業化に展開している他、そうでないケースにおいては、国内経済が低迷し他業界でも収益環境が厳しいものとなっているなか、今から6次産業化に取り組んでも良好な結果を得るのは難しいと考えられる。


耕作放棄地の増加

後継者不足により耕作放棄地が増加している。農地のバトンタッチを受けるべき農業者の卵達がこぞってサラリーマンになってしまった結果、主を失ってしまった農地が合計すると埼玉県の面積を超えるぐらいの広さにまでなっている。

もちろん専業農家や農業生産法人に対する農地の貸借や農作業委託などにより耕作放棄の防止や農業の大規模化が行われているものの、現在の無秩序な土地利用では農地までのアクセスに時間を要したり規模が大きくできかったりして、採算性の低い農地も多く、こうした場合は農地を借りたいという需要が非常に少ない。その場合は、農地に黒いシートを被せ雑草が生えたり荒廃したりしないようにするのであるが、土地という有限な資源をこのように利用することは非常にもったいない話しであり、筆者は悲しい気持ちを覚えてしまう。


それでも農業がライフスタイル

さて、ここまで地域農業の現状課題について説明してきた。

大規模化等によるコストダウンを行ったり、付加価値の高い農作物を生産し一定の収支を獲得している農業者も一定数いる一方、依然として零細規模で農業を継続していく農家も多い。彼らは補助金が欲しいのでしょうか、それとも日本の農業を守ったり先祖伝来の農地を守るという使命感から農業を続けているのでしょうか。

研修先の農家では0.75haある田と幾許かの畑を保有する他、家の近くの畑を借り入れている。田はすべて近隣の大規模農家に貸し出している他、畑で自家消費用の野菜を作ったり、JA出荷用の豆を作っている程度である。自家消費用に無農薬栽培で生産することにより、品質の高い安全安心な農作物を鮮度良く摂取できることはメリットであるが、肥料代や農機具代、農作業の手間などトータルのコストを考えればとても採算の合う作業ではない。

では彼らはなぜ農業を続けるのだろうか。彼らが紡ぎだす言葉は「お金にならない」、「年齢的にもしんどい」、「周辺地域に迷惑がかかるので辞めるわけにはいかない」などのネガティブな言葉ばかりだ。論理的に考えれば、農地を売却したり、農地に黒いシートで蓋をしてひたすら固定資産税を払い続けたりして、離農するという結論に辿りついても決しておかしい話ではない。

それでも「新鮮な農作物を親戚に分け与えれば喜んでくれる」ことや「やらなければならないという気持ちが生きがいにつながる」ことが彼らのモチベーションやプライドとなっており、今日も彼らは畑へと足を運ぶのである。

農業は過去と比べ、確実に儲からない産業となっており、また多くの構造的な問題を抱えている。しかし、農業は確実に地域住民のライフスタイルを形成し、コミュニケーションを促進し、安心安全な食品を心から喜べる笑顔を届けてくれるものであることを、筆者は農業研修を通して確信することができた。



リーダーが誤った判断をしても構わないと思います。最終的に何がベストな判断であったかを完全に検証することは不可能なので、結果的に何が正しくて何が誤りかはわかりません。一方でリーダーに許されないのは判断を遅らせることです。これだと思った方針が様々な抵抗勢力に反対され結果的に判断が先送りにされては生産的な行いは何も実行されない事になります。

ところで最近の日本はTPPによる平成の開国問題を受けて、開国か鎖国かで揺れてきました。世界の情報やカネ、ヒトというものが過去より国境を越えて自由に行き来し、グローバリゼーションが進展していることを感じる現代の世の中においては、開国の方が時代に適応した政策となっていると言える一方で、適度な鎖国を維持して特定業種や特定団体を保護したり日本古来の文化や風習を守るのも決して悪いものではないと思います。

日本が高度経済成長を遂げた時代には今よりずっとグローバリゼーションは進展しておらず、日本は閉鎖的で外国人アレルギーも多かったでしょう。しかしそうした中でも日本は世界に通用する製品を生みだし、世界でも有数の厳しさを持つと言われる消費者を唸らせるきめ細かなサービスを次々と生みだしてきました。ソニーのWalkwan、トヨタのコンパクトカー、日本旅館での行き届いたサービス...すべてが世界を「あっ」と言わせてきたシロモノものです。こうしたものには極めて大きな価値があり、またこれらはグローバリゼーションが進展していなくとも開発されてきたものです。

日本の良さである「モノづくり」、「きめ細かさ」、「ワビサビ」というものはグローバリゼーションの進展とは無関係に進化を遂げてきたばかりか、むしろグローバリゼーションがない時代の方が開発が進んだものなのです。

さて、僕は日本が開国しようが鎖国しようがどちらでもいいと考えています。日本は籠ってしこしこ開発する力もあれば、異なる文化を持った人たちと円滑に渡り歩く柔軟さも兼ね備えています。どちらに進んでも日本は十分戦うことができるでしょう。問題は確たる方向性が見えなくてみんな動きにくいことです。個人個人が頑張ることによって世界全体の効用が高まるという市場原理の働きが鈍くなり、神の見えざる手がずっとグーをして動かないのです。

企業が個人より圧倒的に大きな力を持ち社会に影響を与えられるのは、みんなが一致団結して力を合わせるからです。レバレッジを利かして大きな力を生み出すにはみんなの方向性を決めてやることが大切なのです。後から見ればその方向性が必ずしも正しくなかったと言われるかもしれません。それでも勇気を持って判断を下し、力強くリードしていくその姿勢は、多くの人を鼓舞し勇気づけ、この日本が新しい時代に突入できるきっかけになるだと思います。

そうした時には神様はグーからパーに手を開き、人々にを差し伸べてくれるでしょう。


TPP問題がかなり議論になっていますね。TPPに賛成か反対かはともかくグローバリゼーションが進展する現在においては関税撤廃や国をまたいだルール作りというのは一つの有効な流れでしょう。そういう意味では外交下手な日本は今後も色々と不利な局面が続く可能性はありますね。

そんな外交下手と言われる日本ですが、昔からトヨタとかホンダとかソニーとか日立とか世界に冠たる有名メーカーは1つの文句も言うことなく頑張ってきましたし、突出した企業や個人は政府の助けなどなくともガンガン自分たちの自由を手に入れてきました。

日本政府はこれまで外交で欧米にヤラれる→国民感情が高まる→税金配って国民感情を抑えるという技を使ってきましたが、たまりにたまった政府債務を抱える現状を考慮すると今後はその技もなかなか続けられないでしょう。また日本に限らず先進国の国々は財政赤字や政府債務の増加、景気の低迷、失業率の上昇、増税、年金受給額の減少などなど国民には厳しい状況が続いており、どこの国民も政府に対しいくらかの不満や不信を抱いていて、抗議デモは世界各国で行われています。

そんな世の中だからこそ少し冷静になって考えてほしいのですが、政府や国家からの自立を考えてほしいのです。

そもそも政府に限らず生きていると足を引っ張ってくる輩はごまんといるし、言われもない誹謗中傷を受けることもあります。しかし大のオトナがいちいちそんなことに反応していては事を成すことなどできませんし、グローバリゼーションが進展するなかにおいては政府などに頼らず自立を目指して努力していく方が個人としてはより生産的で建設的な目標になるでしょう。

抗議や要請は意見を届けるという意味で大切な活動ですが、それ自体は社会全体で何かを生産するものではありません。




晴れ渡る秋空の下、政府や国家に対する依存や日本人の米国へのコンプレックスを少しばかり感じながら...
少し古い本ですがご紹介します。

99・9%は仮説 思いこみで判断しないための考え方/竹内 薫

¥735
楽天

僕は理系の大学院で研究していたころに仮説を立てて検証するということをたくさんやっていたのですが、仮説の立て方や検証の仕方、思考の技術や本質の捉え方についてはそのときに基礎が作られたように思います。1つの事象を疑ってみると色々疑わしい点があることに気付き、みんながそれまで当然と考えていたことがそうでもないことに気付いたりします。そしたらしめたもので、みんなが気付いていないので、そっちのベクトルで先行者メリットを享受し圧倒的に優位になることができます。

さて、仮説を立てることがどれほど重要なことなのかと考えると、例えば今の日本の暮らしについてはワーキングプアの増加だとか自殺者数の高止まりだとか悲観的な見方をする面が多いですが、実は圧倒的に世界一幸せであるという大胆な仮説を立てることもでき、それをサポートする材料もそれなりにあって、例えば世界最高水準の治安の良さやモラルの高さ、食品のおいしさやiPhone4sが香港や韓国の人たちより早く手に入れられたりとか色々挙げることができます。最終的に日本人は世界一幸せであると結論付けたりもできちゃうわけです。一方で日本は規制緩和も進まず、製造業の海外移転によって雇用が失われたり、将来に希望が持てない若年層が無視できないぐらいいたりして大変な時代に入っていて、過去の栄光にすがるだけの右肩下がりの国になってしまっているという結論もまた導くことができます。
最終的に真実は1つしかないし、また真実は時代とともに変わっていくことを考えれば要は絶対的に正しい真理なんてほとんどないことに気付きます。

これを聞いて、では結局何が正しいのか、何を信じて生きていけばいいのかと悩むのは無用です。99.9%が仮説というのは自由度が高いことを意味します。何でも好きなように発想して好きなように結論付けてしまっても最終的には誰も絶対的な仮説の棄却をできないし、一定のロジックさえ通していれば胸を張って誰とでもどうどうと渡り合える世界が広がっているということです。毎日が楽しく生きられるような仮説を立てることが人生を豊かにします。絶対無敵の最高の仮説を立てることが不可能ななかにおいては、いかに真実に近い正確な仮説を立てるかに力を注ぐよりも、大胆な発想でポジティブな仮説を立てることの方が人生を生きるうえでより重要でしょう。この本を読んで仮説力を磨きましょう。


さて、最後に大学院の研究時代にいただいた金言をお届けします。

学問とは『ゆるぎなき事実』に基づき『真理とおぼしきもの』を推論することである。by某大物教授