レディ“L”の肖像① 『真実』 | A300yamadaのブログ

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現在、踊り子さんの世界に特化しつつあります。

このブログでこれから彼女を“L”とよぶことにする。

私はストリッパー“L”のデビュー以来のファンである。彼女に出会う前からわずかながらストリップを観ていたが、“L”と出会ったからこそ多くのストリップの踊り子と知り合うことができ、初めて数々のストリップ体験に出会うことになったと思う。一つ、ポラの列に並んだこと、一つ、プンラスしたこと、一つ、差し入れしたこと。“L”が出たわけではないが、大和へ行った。栗橋へ行った。渋谷道劇の中に初めて入ったのも、“L”に出会ってこの世界を究めたくなったからである。つまり私を本当のストリップの楽しさに導いた踊り子である。そして今年、“L”によってもう一つ、初めての体験をすることになった。ただしそれはけして楽しいことではない。

L”は名前の頭文字ではない。あまり根拠はないかもしれないが、本人の名前で検索してもヒットしにくくする配慮だ。このブログは拡散するのが目的ではない。公けに残したいだけだ。けれども、それ以外とくに本ブログで記述する文面で彼女を特定することを避ける配慮はしない。現在のストリップの姫たちについて多少知識のある方たちであれば容易に当てはめることが可能だ。

私のほとんど更新していないこのブログで、彼女について以前実名を出して記事をアップしているが、この話を出すにあたってすべて削除した。

L”はインテリジェンスがあって、ひきしまりかつダイナミックな体つきのグラマラスボディ、くっきりとした目鼻だち、踊り子の中でトップクラスの長身、初々しさの中にもストリップに取り組む真摯さ、そして一人一人のファンに対する誠実な態度、それらすべてが私を引き付けた。

しかし、今年の3月、ついに私はもう彼女のストリップを見ることができない立場に置かれることになった。いわゆる『踊り子出禁』を食らったのである。多く知られることになった彼女の愚行を私が強く非難する結果になった。おそらく彼女が言うように、そんなことをしたのは未熟な老年ファンである私一人なのだろう。それが本当の理由である。

これから私が書き記していく事柄には、“L”に対する非難がましい表現が並ぶ個所も多々あると思うが、それは彼女の人格を傷つけるのが目的ではない。それはいまも彼女がその本当の理由について公けにも私にも語れない事柄について、私が受け止めた事実をもとに考察を働かせて、身の潔白であることを訴えたいからである。

日本を代表するストリッパーの一人にまで上り詰めた“L”が、一人のおっちょこちょいの思いを、たしなめるくらいでは気が済まず、敵愾心をむき出しにするまでになったのには、彼女が触れていたかもしれない、ぬぐい切れない闇の存在が想像できる。私は現在でもことの真実を知ることはできない。彼女が一人の客を強引に突き落としてまで守りたいがあるのだろう。

せめてファンとして、今後も社会の中で不安定な位置づけにあるこのわが国で発達を遂げたストリップというエロティシズム芸能を守るために、彼女たちが最後のところで持たされている覚悟に寄り添いたいとの思いを込めて、このブログで、私と“L”との間に起きたこれまでのできごとをつづることにした。

とはいえ、今述べたように私には“L”の心の中はわからない。である以上、“L”の心のうちや身の回りに起きたことは推測によってしか記述できず、読者もそれを書いている私への疑いや軽蔑が先に立って、真剣に共感してくれることはないだろうし、まず読もうと思わないだろう。それはしかたがない。それでもこうするのは、彼女を追い詰めたいからではない。

L”という有能で輝きのあるストリップのスターがいう日本の文化の一端で輝き続けるために、自分が残した過去に、その苦しさは理解するが最低限目を見開いて、正義を胸にステップを進んでほしいとの願いからである。それを理解してほしいのである。私を締め出せば、私を観なくなることはできるだろう。だがそれでは何も変わらない。

私と“L”との長い話を始めることにする。次回へ。