~時は昭和のはじめ。貧乏ではあるが活き活きと生きてきた少年がいた。名前はのぼると言う。のぼるが見た時代とは~ 

 

今は昔の千葉街道について話をする人はあまりいなくなったが、この時代の小松川地区の千葉街道について少し触れてみよう。
 
当時住んでいた町の中心は千葉街道であった。新町と言って役所・警察・神社商店が軒を並べていた。知っているところを並べると、隅田川から横に入る堅川沿いの道が(旧千葉街道)である。今はこの堅川が埋まり、その上を首都高7号線が走っているが、この川に架かっている橋を隅田川から数えて(1の橋・2の橋・・)と呼んでいる。2の橋が清澄通り、3の橋が三ッ目通り、4の橋が四ッ目通り。5つ目は明治通り。6つ目は番所橋通りである。旧中川に至って逆井橋(元は船の渡し)を渡って、小松川に入り市川に至っていた。
 
今の荒川・中川は後から掘った、人工の放水路であり、江戸(旧東京市内)を水害から守る為に掘ったものである。私はこの放水路の近くに住んでいたのである。
 

逆井橋の横に電車の鉄橋があり、少し走ると今の京葉道路に出て、錦糸町の公差点のそばにあった白木屋が城東電車の終点になっていた。帰りは亀戸9丁目から曲がった電車は、旧街道とほぼ同じ道を西荒川の終点まで走った。途中の停車場は、新町・小松川3丁目・西荒川の3箇所だった。

 

その新町で降りて南の道が千葉街道である。あらゆる商店が店を並べ、賑やかな町であった。手元に子供の頃の町並みを記した地図の復元図があるので、ここで私が小学校へ通う町の姿を再現してみよう。

 

四軒長屋の家を出ると、すぐ左に曲がる。料理屋(藤の屋)、喫茶店(すずらん)、つり掘(東園)を通り少し行くと電車の終点がある。角を曲がると青バスの車庫やいろいろな店の並ぶ新町通り。少し行くと角に金物屋の雨宮、ここを左に曲がる。公設市場を右に見て、角の酒屋を右へ曲がる。ドブ川伝いに少し行くと左が小松川第二小学校である。

 

帰りは校門を出て、まっすぐに新町(千葉衝道)に出よう。餅菓子屋(新清堂)を右に曲がり、当時は自動車など殆ど通らないから、ゆったり気分で友達と話しながらの帰り道になる。両側はそれぞれ個別の商品店でスーパーマーケット的な店は無い。角の松の湯を左に曲がると、春日町通り(ここは春日屋さんの土地なのでその名が付いていた)。

 

電車の線路を渡ると左に浅草行きのバス停があり、その奥に電車の車庫。右には、当時にしては立派なビル農工銀行があった。その隣が公衆病院。ここを右に曲がって小料理屋の並ぶ美人横丁に入る。まっすぐ歩くと、左の角が大野屋酒店、その前のドブ川を渡った所が我が家であった。

 

新町と春日町通りが今の砂町銀座通りを大きくした様な商店街であった。春日町通りを北に平井方面を歩くと改正道路だった。これが今の京葉道路である。
 
この先の逆井も結構賑やかな町であった。この改正道路では、月2回神社の縁日が開かれ楽しかった。小松川橋の新橋は戦時中の事、難工事であることも手伝って完成までに8年もかかり、京葉道路の開通は大幅に遅れてしまったが、あの3月10日の東京大空襲の時にこの橋が無かったら、もっともっと大惨事になっていた事だろう。
 
橋の向こうの日発交差点から先の道路は、それからずっと後の開通であり、京葉道路が今の様になったのは昭和も大分過ぎてからになる。昔、旧千葉街道を池上本門寺から中山の法華寺へ向かうお会式の万燈がこの道を小太鼓を叩きながら橋を渡っていく人の幻想的な姿を眼にしたものである。