「蝉の声 」で書いたように散歩を始めてから朝の蝉の声が気になるようになっています。蝉の声もその頃からとは変わってきて、秋を迎える物悲しい感じのヒグラシが鳴いています。
先日「八日目の蝉」をたまたまテレビで見ることになりました。本屋は好きでよく行くのですが、映画公開時に帯を付けて並んでいたのを思い出しました。小説は時代物が好きで、その方面のものはよく読むのですが、現代物はあまり興味がなく、流行りの宮部みゆき、東野圭吾、村上春樹をちょっと読んだことがあるくらいで、角田光代さんにまで到達することはありませんでした。
まっさらな感じで、何か今回はちょっとした巡り合わせなのかなという感覚で見始めたんですが、結果的には泣いていました。何がどうという感じではなく、自然と涙が出てきた感じでした。
自分の状態を振り返ってみると、最後の主人公の気付きにも心を動かされるのですが、そこではなく、育ての親の耐え忍ぶ様に泣いていたのだと思います。以前、「耐え忍ぶ 」で、手放すべき感情かも知れないと書かせて貰いましたが、今のところ手放したくても手放せない魂からの感情と感じています。この感情がないと人生はつまらないものになるとも改めて思い返しました。ただ、それを美徳として掲げてしまうと、奴隷的な考えが入り込んでしまう可能性があるかもとは少し思ったところです。