現代文は国語であって,哲学ではない | 遠距離大学に進学した次男や就職した長男のこと

遠距離大学に進学した次男や就職した長男のこと

就職1年目の長男と大学1年の次男,2人の息子をもつ父の日記です。

 次男が,文系に進んだので,私もちょっと現代文のテキストをかじったりしています。
 もし,次男が理系に進んだら,数学は当然として物理や化学もやったのになぁ…,とちょっと残念です。
 今,塾で「現代文と格闘する」(河合出版)と格闘しています。
 私も買いました。
 難解です。

 私は,高校のとき国語は,不得意でした。
 選択問題は,ことごとく外れるし,記述はさらにできないという状態。

 私たちのころ,評論文でよく出題されたのは,小林秀雄の文章です。
 「モオツァルト」や「無常といふ事」などが代表作。
 今,読んでも,さっぱりわかりません。
 高校生で小林秀雄を理解できたのは,ほんの一握りだったのではないでしょうか?
 
 「どうしてこんなに難しい文章なんですか? もう少しわかりやすく書いてもらえると理解できるんですが」と,問われた小林秀雄は,「私の考えを,もっとも正確に理解してもらうためには,この文章しかありません」と答えたそうです。
 一流の評論家とか哲学者といった人たちは,どの言葉を使うか,どういう文章構成にするか,ものすごく緻密な作業をしているのだと思います。
 その結果,難解になったとしても,それがベストな文章なんでしょう。

 さて,「現代文と格闘する」に登場する文章も手強いです。
 こんな例題文があります。
 
 全体のなかでその要素として一つの部分が他の部分から区別されることの明確さつまり判明と,それぞれのもののそれ自身としての明確さつまり明晰という区別を立てれば,近代科学の大きな前提になっていたのは,明晰と判明とを同時に要請することであり,とくに判明なものを集めていけばそれで全体として明晰なものが得られるという確信であった。
                          中村雄二郎「哲学の現代」

 どうでしょうか?
 文章の中には,難しい語句はありません。
 しかし,わからない,モヤモヤする,この感覚がいやです。
 次男が,こういう文章を理解できているとは到底思えません。
 いや,理解しているかも…。

 テキストを先に進んでいくと,読み方のガイドが書いてあります。
 「キーセンテンスを見つける」とか,「接続詞に着目せよ」とか,「段落どうしの関係をつかむ」とか,解法のテクニックが示されています。

 ここで,気づいたんです。
 例文は「近代科学」についての論考で,非常に哲学的な内容です。
 しかし,「現代文の問題」として求めているのは,「近代科学」に対する著者の考えを「国語的に理解しているか」であって,「近代科学」について論じることではないということです。

 例文は,長い1文です。
 これが,内容をわかりにくくしている要因でもあります。
 テキストでは,主部と述部に分けなさいと指摘しています。

 そうすると,こんなにシンプルになります。
 
  (主部)近代科学の大きな前提になっていたのは⇒(述部)~確信であった。

 こうなると,かなり整理されたという印象です。


 さて,大学入試の現代文には,評論文が必ず出題されます。
 問題文を読み進めるだけでも,苦労します。
 ですが,評論とか批評とかは,自分の考えを理解してもらうために,しっかりした文章構成になっているはずです。
 適当に,ダラダラ思いつくまま書いても,論理的な文章にはならないでしょう。
 ですから,難解と思われる文章でも,論理的に書いているはずだから,「国語的な手法」で読み解いていくことで論点をつかむことができる,と考えればとっつきやすくなるかもしれません。

 現代文には,哲学的な内容が含まれることが多いです。
 私などは,問題文を読みながら,「こっちも哲学的に考えなければならない」と身構えてしまいます。
 しかし,「国語」として出題されているわけですから,あくまで「国語的手法で解く」という向き合い方をしなければならないということですね。

 すみません,ちょっと理屈っぽくなってしまいました。