高校の頃、社会教師がみんな君が代嫌いでした。
授業も推薦図書(夏休みに感想文の宿題があるのね)も、
みーんな彼らの趣味。
授業で配られたプリントはやっぱり過激。
テストで自分の意見を書くという出題欄に自分の意見をそのまま書いたら「×」。
試しに彼らの書いて欲しそうなことを書いてみたら「抜群です」のコメントつき。
意見の違いとかを交換したり議論したりする気はなかったんですね。
それでも「あなたの意見を書きなさい」みたいな言い方をするわけで。
しかも一意見に対して「マルバツ」ではっきり評価するとか。
今思えばそういう人が社会を教えるっていうのがありえないし、
この国は社会をそうやって教える人たちを公務員にしてしまっていたという事。
(この国が明確に「ウチはそういう国にするんだ」と定めているなら話は違うけど。)
家でそんな話をしてみたら「その授業をあまり真に受けないように」と言われた。
まったくもってその通り。
そんな社会教師たちですが、
当然のように君が代は卒業式で歌いませんでした。
だけど彼らは、
自分たちだけで勝手に着席し、
生徒たちへの着席を決して強制しなかったし促しもしなかった。
自分たちだけで勝手に座ったの。
だから私は「彼らには彼らの意見がある」と認めることができた。
皮肉なことに、私はそれで「他人のあり方の尊重」や「自己を主張すること」の両立の場面を
初めて身体で知ることができた。
彼らの持っている意見を過激だと印象深く思っていたからこそ、強烈な教訓として残った。
これは社会教師たちに感謝すべき体験だと今でも思っています。
彼らの意見は大嫌いだったけれど、それとこれとは別…として私の中に残った。
今ギャーギャー言ってる先生たちって、
式典全体を思い通りにしたがってるそうですね。
強制されることを嫌がりながら、周りに強制しようとするんですか。
第一、式典の主役は教師じゃ決してないでしょうに。
学校とかもっと前に基本的に教えられるでしょ。
「自分の嫌なことは人にもするな」って。
それと、
お給料をくれる機関が根本的に嫌いなら
そこからお金もらわない、くらいのプライド見せてくれないと
どうしても身体張って必死にやってる主張になんか見えやしません。
お遊び、程度の軽さにしか見えない。
府民じゃないのになんですが、橋下さんは毅然としてて欲しいです。
つまらない趣味のお遊びに、日本中が付き合わされるなんてお断りです。