今日は我が並州の北方にいる匈奴について書いていきます。匈奴は前4世紀あたりに興った中央ユーラシアの騎馬遊牧民族である。王の称号は単于。そして匈奴は南に下りてきて秦を圧迫する。その対策に作られた(修理にした)のが万里の長城で蒙恬という人を匈奴討伐に当たらせる。この匈奴討伐のために徴兵された陳勝と呉広(農民)だが大雨のために遅刻してしまう。遅刻は死刑。どうせ死ぬなら反乱を起こそうと中国初の農民反乱が起きる。
この乱から頭角を現したのが項羽と劉邦である。ちょうどこの頃匈奴では冒頓単于のもとで最盛期を迎えていた。項羽、劉邦、冒頓単于の三国志とも言えなくもない。劉邦が垓下の戦いで項羽を破って漢を建国するが、白登山の戦いで冒頓単于の捕虜になる。匈奴は馬術に長けていたのはもちろん、逃げるということがうまかったようだ「背中の傷は戦士の恥」や「一騎打ち」という考えはなく分が悪いなら傷ついた仲間もほったらかしてさっさと逃げるという戦い方だった。(逃げの桂小五郎のような)そこで皇帝よりも単于のほうが上の位であるという和平を結ぶ。
これが変わるのが7代目武帝の時代、武帝はエイセイ、カクキョヘイらの大軍を匈奴に送る。また大月氏という国と同盟して挟撃を試みる。が同盟は成立せず。ここから匈奴は衰退していく。
前1世紀、時の単于が没すると内乱がおき東西に分裂する。東匈奴は西匈奴に劣勢をとり漢に降伏、従属する形で同盟を組み西匈奴を漢とともに滅ぼす。前漢が外戚王莽の新に乗っ取られると王莽は単于の特権を認めない態度を取る。すると西匈奴は同盟を破って侵攻してくるようになる。新はすぐに滅び後漢の劉秀は西匈奴と新和の回復をしようとしたが失敗した。ところが西匈奴で内乱が起き今度は北と南に分裂する。そして南匈奴が後漢に降伏し後漢の加護を受け北匈奴と対立していく。
南匈奴は鮮卑などの遊牧民とともに北匈奴を攻撃し1世紀に単于を殺害、本拠地も奪う。匈奴帝国は世界史から姿を消すことになる。この匈奴の一部が西に流れフン人となった説が今日の最有力説である。
一方の北匈奴は後漢の支配のもとで国ではなく一つの部族として生活している。魏の曹丕に定位が禅定されると匈奴は分割統治させられる。実際には奴隷として、軍事力として利用される立場にあった。しかしその軍事力として利用されたことで自主性を取り戻せるとして劉エンが漢をなのり建国する。(匈奴帝国としてのプライドはなく魏そして普に奪われた漢王朝の復興を目的として)劉エンは前漢劉邦が使っていた高祖という称号を自称する。その子供の劉ソウが永嘉の乱で普の落葉を陥落させ普を滅ぼす。が後に別の遊牧民の国に併合されここで匈奴の国はすべて終わりを迎えた。遊牧民の覇権は匈奴から鮮卑に移った。
ここからはフン人についてだ。フン人は匈奴の一派という説という有力説をもとに考える。フン人(国を追われた匈奴の一派)が西に逃れたことでもとからそこに住んでいた東ゴート人が移動を始めこんどは西ゴート人を圧迫、これがドナウ川を渡りローマ帝国内に侵入、西ゴート王国を建国。玉突き式にゲルマン人の大移動が始まりブルクンド王国、ヴァンダル王国、フランク王国、がローマ帝国内に次々と建国。しかしゲルマン大移動はゲルマン人側から見た話でありローマ人側からすればゲルマン人大侵入である。しかしゲルマン人が侵入したといってもローマと戦争、破壊を尽くしたというわけでは全くない(ヴァンダル王国は例外)そもそもローマ帝国は領土が広すぎるので端っこにゲルマン人が国を建てようが大して気にならない。むしろ東ゴート王国は当初はローマと非常に良好な関係であった。フランク王国も東西協会大分裂がおきて後ろ盾なくしたローマ教皇からすればありがたかっただろう。ゲルマン人よりも敵はイスラム勢力である。ただ「ムハンマドなくしてシャルルマーニュなし」という言葉があるようにイスラム勢力なくして今の西ヨーロッパ世界の成熟はなかっただろう。というわけでフン人、匈奴のお話でした_(_^_)_

参考文献『ヨーロッパとは何か』『覇権の歴史を見れば世界がわかる』『世界史の10人』『スキタイと匈奴勃興の世界史』『教養の世界史』『世界史通史編前編』『15のテーマで学ぶ中世ヨーロッパ』『世界史ミュージアム』
参考ホームページURL:https://www.y-history.net/