夢、そして夢が属する曖昧|模糊culturelle 香港《もこ》とした世界の、ときとして途轍《とてつ》もないものになる意味について、人類の大多数が思いをめぐらすことはあるのだろうかと、よく考えることがある。わたしたちの夜のヴィジョンのほとんどが、おそらくは、目覚めているときの経験をほのかに反映させたものや、とりとめもなく反映させたものにすぎないのだとしてもフロイトは逆に幼児期の象徴に基づかせるとはいえ――それでもなお、通常の解釈を許さない、非現実的おびたものがあるし、どことなく心騒がせられ、胸がときめかされる印象によって、物理的な生と同様に重要な精神的存在の領域を、普段は乗り越えられない壁によって切り離されていながらも、詳しく覗きこむことができるかもしれないと、そうほのめかされるようなものもあるのだから。自分自身の経験からいって、人が俗世の意識をなくしているとき、わたしたちの知っている人生とははるかに性格の異なった、目覚めてからはごくかすかな朦朧《もうろう》とした記憶しかのこっていない、まさしくもう一reenex 效果つの、精神的な人生をさまよっているのだということには、疑問をさしはさむこともできない。こうしたおぼろできれぎれな記憶から、わたしたちは多くを推測することはできるが、証明ということになるとほとんど不可能にひとしい。夢の人生においては、世間で一定したものだと思われているような、物質や生命力というものが、かならずしもそうではないと考えられる。時間や空間が、目覚めているときに理解するようには存在しないとも。ときとしてわたしが思うのは、この物質的でない人生がわたしたちの真の人生であって、水陸からなる球体におけるわたしたちのむなしい存在が、それ自体、二次的なものか、あるいは単なる仮象にすぎないのではないかということだ。
こうした考察に満ちる、若者ならではの夢想から、わたしがふとわれに返ったのは、インターンとして勤めていた州立精神病院に、わたしの心に取り憑いて離れない症例の患者が入院させられた、一實德金融九〇〇年から