歩き旅カメラの記憶/鬼子母神界隈~護国寺界隈ー6(2004年(H16年5月12日(水)/2人会

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本日投稿のお墓巡りの護国寺、豊島岡墓地(地図では豊島ヶ岡御陵)、雑司が谷霊園の地図を「街っぷる東京23区」(2011年1版6刷)から借用しました。

護国寺、豊島岡墓地(地図では豊島ヶ岡御陵)、雑司が谷霊園)は中央部やや下です)

 

以下写真以外は再掲です。

前項の日本橋界隈~新橋界隈の散策を終った2年後、2人会(3人会から1名抜けた2人)で鬼子母神界隈~護国寺界隈を散策しました。

【行程】

JR目白駅→鬼子母神→山吹の里→護国寺→池袋駅(反省会)

【地図】当時のネット地図(今回行程のほぼ全域)

【古地図】護国寺は上方にあります)

 

以下写真はコンデジFinePix2300で撮って出しです。

 

↑護国寺にある 故権典侍正五位 橋本夏子の墓

橋本夏子とは(ウィキより)

1856年3月19日安政3年2月13日〉- 1873年明治6年〉11月14日)は、江戸時代末期から明治時代の公家女性。明治天皇側室典侍

父は東坊城夏長、母は橋本麗子で、母方の祖父橋本実麗の養女となる。義兄(実麗の養嗣子)に橋本実梁、叔母(母の実妹)に橋本松子、義甥(実梁の子)に橋本実穎。また、仁孝天皇の典侍で和宮親子内親王の生母の観行院(橋本経子)は実麗の妹で、夏子の義叔母・実の大叔母にあたる。

明治5年(1872年)に典侍となる。宮中では小桜と言われ、明治6年(1873年)11月13日に第一皇女・稚高依姫尊を出産するが死産であり、夏子もその翌日に産後の経過不良により急逝した。享年18(満17歳)。豊島岡墓地に隣接する護国寺墓地に葬られた

 

↑豊島岡墓地(豊島ヶ岡御陵) 中山慶子の墓

中山慶子とは(ウィキより)

天保6年11月28日1836年1月16日〉 - 明治40年〈1907年10月5日)は、孝明天皇典侍で、明治天皇の生母。号は中山一位局など。大正天皇の祖母、昭和天皇の曽祖母にあたる。

権大納言中山忠能の次女で、母は平戸藩主・松浦清(靜山)の十一女・愛子侯爵を授けられた中山忠愛は長兄。天誅組の主将・中山忠光は同母弟。従一位勲一等

天保6年11月28日(1836年1月16日)、京都石薬師(御所の東北)の邸に生まれ八瀬(現京都市左京区八瀬)に里子に出されて育つ。17歳で典侍御雇となって宮中に出仕し、名を安栄(あえ)と賜る。孝明天皇の意を得て懐妊し、嘉永5年9月22日1852年11月3日)、実家中山邸において皇子・祐宮(さちのみや、のちの明治天皇)を産む家禄わずか二百石の中山家では産屋建築の費用を賄えず、その大半を借金したという。

祐宮はそのまま中山邸で育てられ、5歳の時に宮中に帰還し慶子の局に住んだ。その後、孝明天皇にほかの男子が生まれなかったため、万延元年7月10日1860年8月26日)、勅令により祐宮は准后女御・九条夙子(英照皇太后)の「実子」とされ、同年9月28日親王宣下を受け名を「睦仁」と付けられた。

慶応3年(1867年1月9日、睦仁親王が践祚。同年4月、慶子は病のため辞していた典侍に再任される。慶応4年(1868年8月4日従三位及び食禄五百石と屋敷地を賜わり、翌々年9月7日、さらに従二位に叙せられた。明治3年(1870年)9月、遷都に伴い東京に移住。

明治12年(1879年)に生まれた嘉仁親王(のちの大正天皇)の養育掛となり、同22年(1889年)まで親王の養育を任せられた。同年正二位

明治維新による女院号廃止のため院号宣下は無かったが、国母として相応に厚遇された。明治33年(1900年1月15日、大患により従一位に昇叙。同17日、人臣で初めて勲一等宝冠章を授けられた。明治40年(1907年)10月5日、東京青山南町の邸にて薨去。享年73。豊島岡墓地に埋葬される。

↑資料を携えて墓巡りをしていた某氏と記念撮影

 

※雑司が谷霊園見取図

以下雑司が谷霊園で巡り会った有名人の墓

↑千葉重太郎、定吉の墓

千葉重太郎とは(ウィキより)

幕末剣客鳥取藩藩士北辰一刀流桶町千葉道場の創設者・千葉定吉の長男。

↑夏目漱石の墓

↑中浜万次郎の墓

中浜万次郎とは(ウィキより)

旧字体ジョン萬次郎英語:John Manjirō、1827年1月27日文政10年1月1日〉 - 1898年明治31年〉11月12日)は、江戸時代末期(幕末)から明治にかけてアメリカ合衆国日本で活動した日本人である。アメリカ人からはジョン・マン(英語:John Mung)という愛称でも呼ばれた。土佐国(現・高知県)出身。帰国後は本名として 中浜 万次郎(なかはま まんじろう、旧字体:中濱 萬次郎)を名乗った。なお、「ジョン万次郎」という呼称は、1938年(昭和13年)に第6回直木賞を受賞した『ジョン萬次郎漂流記』(井伏鱒二)で用いられたことで広まったもので、それ以前には使用されていない。

日米和親条約の締結に尽力し、その後、通訳教師などとして活躍した。

↑大川橋蔵の墓

大川橋蔵とは(ウィキより)

1929年昭和4年)4月9日 - 1984年(昭和59年)12月7日)は東京都出身の歌舞伎役者、のち時代劇俳優本名は丹羽 富成(にわ とみなり)、旧姓は小野(おの)。

1955年12月、『笛吹若武者』でデビュー。しかしこの時は歌舞伎に籍を置いたままだった。2作目の『旗本退屈男』を撮った後マキノ光雄の誘いに応じて東映に入社。デビュー作『笛吹若武者』で共演した美空ひばりから、本名の富成をもじっていきなり「トミー」というニックネームをつけられ戸惑ったが、これが映画界の洗礼となった。この後、東千代之介中村錦之助・市川雷蔵・大川橋蔵の四人は、「二スケ二ゾウ」と呼ばれ、橋蔵も若手時代劇スターを代表する一人として昭和30年代の日本映画黄金時代の立役者となっていく。

1960年代以降、映画全般がテレビに押されて時代劇は斜陽の時代に入り、東映がヤクザ映画に路線転換していくと、舞台やテレビに活動の場を移した。祇園で馴染みの芸妓であった沢村真理子と1966年3月に結婚した。

 

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歩き旅カメラの記憶/鬼子母神界隈~護国寺界隈(2004年(H16年5月12日(水)/

 ー了ー