歩き旅カメラの記憶/鬼子母神界隈~護国寺界隈ー5(2004年(H16年5月12日(水)/2人会

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本日投稿の護国寺の地図を「街っぷる東京23区」(2011年1版6刷)から借用しました。

(護国寺は中央部やや下です)

 

以下写真以外は再掲です。

前項の日本橋界隈~新橋界隈の散策を終った2年後、2人会(3人会から1名抜けた2人)で鬼子母神界隈~護国寺界隈を散策しました。

【行程】

JR目白駅→鬼子母神→山吹の里→護国寺→池袋駅(反省会)

【地図】当時のネット地図(今回行程のほぼ全域)

【古地図】護国寺は上方にあります)

 

以下写真はコンデジFinePix2300で撮って出しです。

 

↑↓護国寺へ

護国寺とは(ウィキより)

東京都文京区大塚五丁目にある真言宗豊山派神齢山悉地院大聖護国寺と称する。

天和元年(1681年)2月7日、徳川綱吉は母、桂昌院の願いをうけ高崎大聖護国寺住持であった亮賢に高田薬園の地を与え、桂昌院の祈願寺護国寺の建立を命じた。

本尊は桂昌院念持仏の琥珀如意輪観音 (絶対秘仏)。本堂(観音堂)本尊は堀田正虎の母・栄隆院尼寄附の如意輪観世音菩薩。江戸三十三箇所観音霊場の第13番札所である。江戸時代には浅草寺回向院に次いで出開帳の宿寺として人気があった。

境内には富士塚の「音羽富士」がある。

 

護国寺は幕府の祈願寺で、檀家を持たなかったため、明治維新後は後ろ盾を失い、経済的な苦境に陥った。境内地5万坪のうち、東側の2万5千坪は宮家の墓所(豊島岡墓地が造られた。これは1873年明治6年)の明治天皇の第一皇子稚瑞照彦尊の薨去(死産)を機に、護国寺境内の東半分が皇族墓地とされたものである。また、西側の5千坪は陸軍用墓地となり、境内は2万坪ほどに縮小した。(現在、陸軍墓地は護国寺墓地の一角に整理されている)

また、稚瑞照彦尊の生母、葉室光子も1873年に亡くなるが、皇族墓地に入れず、護国寺境内に葬られた。のち、境内に三条実美山縣有朋大隈重信らの墓所が造られた。

 

↑友人のS氏

↑本堂

↑↓護国寺の絵、版画?

 

以下次回へ