緊急事態宣言を受けて、善きサマリヤ人のたとえを思い出しました。
「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負わせ、半殺しにしたまま、逃げ去った。するとたまたま、ひとりの祭司がその道を下ってきたが、この人を見ると、向こう側を通って行った。同様に、レビ人もこの場所にさしかかってきたが、彼を見ると向こう側を通って行った。ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。翌日、デナリ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った。(ルカによる福音書第10章から抜粋)
みなさんこんにちは、あなたのよき隣人でありたいと思っている佐々木泰久です。
異邦人或いは下賤なものであって立派な善行をした人こそを見習うべきだという文脈で語られることの多いこの寓話ですが、祭司とレビ人にも同上同情すべき事情があったことはあまり語られていないような気がします。
多くの人の解説を聞いたわけではないので、根拠はないんですけど( ^ω^)・・・
ただ、「善きサマリヤ人」っていうくらいですから、その比較の対象にされた祭司・レビ人は、悪人とは言わないまでも善人ではない、という理解のされ方をしていると想像できます。
何しろ、倒れている人を見つけると、助けにいくどころかそれを避けて道の反対側を通っていくのですから。
その上で、
祭司には祭司なりの、レビ人にはレビ人なりの同情すべき事情があったと考えることも、時には必要なのではないかなぁ、と思うのです。
今、武漢肺炎が世界を席巻しています。
人を見たら新型ウイルスか病原菌と思えってくらいの状態です。
一方、症状がない人も、自分はウイルス感染者かもしれないと思って行動することも求められています。
罹らないようにするのではなく、拡散させないようにする注意が必要だということです。
さて、祭司もレビ人も、旅人が強盗に襲われたことは知りません。遠くに、今にも死にそうな人が倒れているのを発見したとき、伝染性の疫病を疑うことも当然ありうることです。
自分には幼い子供もいるし、年老いた親だっている。もし、病気をうつされたら、自分が原因で家族に累が及ぶかもしれない。
そんなことを考えたら、近づくのをやめておこう、と考えるのも無理はありません。
サマリヤ人の善行を褒め称えるのはいいでしょう。
一方で、祭司やレビ人を責めるのは、ちょっと違う気がします。