(2)謎に満ちた「烏山八景句碑」の変遷と巴人奉納句鑑賞
(情報9)『杖の土』(宋屋)→ 「野州烏山滝田天満宮に往昔亡師(注・巴人)が奉納した」俳額について、次のように掲載している。宋屋の奥羽行脚は延享三年(一七四六)で、この時には、巴人も潭北も没している。蕪村は結城・下館、そして、江戸の増上寺裏門辺りに居住していて、宋屋は蕪村を訪ねていたが、宋屋は蕪村には会えなかったことが記されている。
朝日山 鶯の氷らぬこゑやあさ日やま 東武 其角
中川 中川やほほり込んでも朧月 嵐雪
比丘尼山 独活蕨つま木(注・薪)こる(注・伐採する)日やびくに
山 専吟※
前垂山 赤だれに猿の手もがな(注・欲しい)庭雲雀 琴風※
五郎山 花の夢こゝろはづかし五郎山 後名淡々 渭北※
桜井里 水聞(注・水番のことか?)の耳のうごきや家ざくら
願主 巴人
牧野 筑子(注・こきりこ=竹の楽器)もまき野の藪は雉子の声
烏山 斟計※ (注=斟計の「計」は「斗」と草書体が類似し「斗」か(?)句碑建立の大鐘新斗と関係ある俳人か?)
元禄十五壬午(注・一七〇二年)春
(情報10)『安達太郎根』(淡々=前号・一世渭北)→「烏山八景句碑」に登場する渭北(淡々)が「奥の細道」の行脚の途次に、「烏山天満宮を拝し」、巴人が奉納した俳額を次のように掲載している(二世渭北=麦天は、蕪村の知友で、蕪村の「新花摘」の最終場面に登場する。そこで「義士四十七士式家〈注・高家〉の館を夜討して、亡君のうらみを報い(以下略)」の其角書簡(秋田佐竹藩重臣・梅津半右衛門ノ尉=其角門の其雫宛)を麦天が所蔵していて、蕪村に譲ると言う申し出を固く辞退したとの記載がある)。
中川やほうり込んでも朧月 嵐雪
鶯や氷らぬ声を朝日山 其角
独活蕨妻木こる日や比丘尼山 専吟
赤だれに猿の手もがな底雲雀 琴風
宵闇の華に鞍なし五郎山 渭北
水聞の耳の動きや家ざくら 巴人
(情報11)「松木淡々年譜稿」(「俳文芸三九号・四十号」・白数了子稿)→元禄十六年(発未)一七〇三 三十一歳 ○七月下旬 芭蕉の跡を慕い、奥羽行脚に出立。(中略)◇両吟半歌仙 斟計・渭北(烏山にて)(以下略)。
(情報12)『からすやま文学の碑散歩道』(皆川晃著)に次の記載などが見られる。
その一(下境・佐藤新二家文書 桧山豊山写)
=(注・現存する「烏山八景句碑」の句形)
朝日山 鶯の氷らぬ声や朝日山 其角
中川 中川やほうりこんでも朧月 嵐雪
比丘尼山 独活蕨爪木こる日や比丘尼山 雪吟※(専吟の誤刻)
赤垂渕 赤垂に猿の手ほしや底雲雀 蓼風※(琴風の誤刻)
五郎山 花の夢心恥かし五郎山 渭水※(渭北の誤刻)
大沢 大沢や入日をかえす雉子の声 栢十
興野 その原や朧の月も興野山 湖十
桜井里 水聞の水の動きや家桜 巴人
その二 この「佐藤新二家文書」は、「下野国那須郡瀧田村朝日観音江奉納額写」で、「寛政元乙酉十二月二十五日奉納」とあり、「寛政元年」(一七八九)に奉納したものの写しである。ここには、上記の八句の他に、「其外」(江戸の存義・百万の句などの八句)と「奉納四季」(烏山藩大久保家の家臣団の句など十二句)が収載されている。
その三(皆川晃氏の見解=上記の現存する句形の※を修正したもの)
朝日山 鶯や※氷らぬ声を※朝日山 其角
中川 中川やほうり込んでも朧月 嵐雪
比丘尼山 独活蕨爪木こる日や比丘尼山 雪吟※(専吟の誤刻)
赤垂渕 赤だれに猿の手もがな※底雲雀 蓼風※(琴風の誤刻)
五郎山 花の夢こころ恥かし五郎山 渭水※(渭北の誤刻)
大沢 大沢や入日をかえす雉子の声 栢十
興野 その原や朧の月も興野山 湖十
桜井里 水聞の耳※の動きや家桜 巴人
その四 朝日山=現在の句碑のある山のこと。中川=那珂川。比丘尼山=朝日山の北方に連なる丘陵。赤垂川=霧ヶ沢といわれる川で、赤垂渕から那珂川に流れ込む。五郎山=比丘尼山の北西に位置する丘陵か? 大沢川=境地区の北部に位置する谷間に拓けた村落を東から西に流れる川。桜井の里=那珂川の河岸段丘に拓けた村落一帯、現在の坂下から滝田にかけての呼称(「牧野の里」の写真が掲載されているが、この掲載されている写真は「桜井の里」の写真か? 「牧野の里」の説明はない)。
その五 現存する「烏山八景句碑」には、冒頭に「安政三丙辰南呂再建、善哉庵永機書」とあり、上部に「烏山八景」と刻まれている。「安政三丙辰南呂」は、「安政三丙辰」(一八五六年)の「南呂」(仲秋・八月)のこと。「善哉庵永機」は、「穂積氏」で、其角堂七世を嗣承している。