こんにちは、弥月です。
検察官のバッチは結構有名ですよね。
では、検察事務官のバッチはどうでしょう。
かなりマイナーですよね。
左が検察官のバッチである秋霜烈日バッチです。
そして、右が検察事務官のバッチである桐の紋です。
そういえば、修習で事務官が事務官バッチを付けているところを見たことがありません。
さて、話は変わります。
日本政府のマークはなんでしょうか。
こんな感じです。
桐の紋ですね。
正確に言えば、「五三桐紋」というらしいです。
もっというと、法務省や外務省のマークも桐の紋らしいです。
検察庁も法務省の外局なので、事務官のマークも桐の紋なのでしょうか。まぁ、詳しいことは分かりませんが。
検察官はちょっと特権階級意識が強いから、特別なマークなのであって、事務官さんは法務省のマークにならっているのかもしれません。
そういえば、刑務官の制服にも桐の紋が入っていたような気がします。刑務所も法務省の管轄ですもんね。
法務省や外務省以外のマークはよくわかりませんが、日本政府としては、桐の紋を使う感じなのでしょう。
さて、話を更に変えていきます。
豊臣家の家紋を考えて見ます。
この流れだと分かりやすいですが、桐の紋です。
こんな感じですね。
なんで、日本政府と豊臣家のマークが一緒なのでしょう。
不思議だなぁと思っていたところ、同じように思った人が沢山いたのか、ネットで色々と言われていました。
都市伝説として有名なのは、明治維新は豊臣の復興を意味するというものですかね。
明治維新の立役者となった藩は薩摩・長州・土佐等ですね。
全部、外様大名のいる藩です。分かりやすく言えば、関ケ原の戦いで豊臣方の西軍についた藩です。
なので、徳川幕府を滅ぼし、政府を作るなら、豊臣のマークを使おうという思考回路の下で、桐の紋が使われたというものです。
しかし、明治維新の立役者は下士です。藩への帰属意識はあろうとも、藩が250年前の建前上従っていた豊臣家に畏敬の念を抱いているとはとても思えません。
通説と言われているのは、朝廷のための政府としての役割の側面から桐の紋が使われたというものです。
元々、桐の紋は、天皇家が使っていた格式ある紋章だったそうです。
しかし、いつしか天皇家でなくても有力な武士とかも使いだすらしいです。
足利尊氏は天皇から、「You、使っていいよ」と言われて以降、桐の紋を使ったそうです。織田信長も、足利義輝から「おー、使っちゃいなよ」と言われて、使っていたそうです。
秀吉にしても、後陽成天皇から使用許可を貰ったから、あの桐の紋を使ったそうです。
明治維新は、天皇を中心とした中央集権国家を志向しました。天皇のための政府であれば、天皇の紋章を使っちゃおうという発想も頷けます。
でも、ここで疑問が生じます。
天皇家の紋章って、菊の御紋じゃね?
wikipedia情報によると、鎌倉時代に後鳥羽上皇が使い始めて以降、天皇家の使用が慣例化し、菊の御紋が正紋、桐の紋が副紋となったそうです。
天皇家も桐を使ったり、菊を使ったり、一貫性や節操がないなぁと思います。
ただ、菊の紋については、桐の紋と違って、一般大衆が使い放題だったそうです。なんで正紋の方が使い放題だったのかよく分かりません。
しかし、明治維新があって、慶應3年や明治2年に太政官布告で菊の御紋を一般大衆が使用することを禁止したそうです。
太政官とは、まぁ内閣の前身のようなものだと思うので、今でいう内閣府令みたいなものなんですかね。
まぁ、自分で人に使うなと言ったマークと自分が使ったらみんな怒っちゃうでしょう。
でも、朝廷の政府としてのマークが欲しい。そう思った日本政府は副紋の桐の御紋を使ったという感じなのでしょうか。
天皇中心国家をデザインした帝国憲法から日本国憲法に変わったとしても、日本政府としての連続性は断たれていないので、今でも使われているのでしょう。
と、上手くまとまったのに、wikipediaを見直していると、大日本帝国は政府のマークとして、菊の御紋を多用していたともあります。
別のサイトでは、大日本帝国が朝廷の政府であることを示すために桐の紋を使用していたとあったので、それを前提に書いていったのに、一体どっなんでしょう。
仮に、日本国憲法下の日本政府になってから桐の紋に定まったのだとすると、菊の紋を使用することを控えることで、天皇家との距離をとったとも考えられます。
まぁ、桐の紋にしても、そもそもは朝廷の政府を示すものなんですけどね。
調査不足でブログを書き始めるから冗長なブログになるんだよなぁ。
とりあえず、日本政府が桐の紋を使い始めた正確な年月日と大日本帝国憲法下での桐の紋と菊の紋の使用比率を知りたいです。