坂本龍馬と坂本竜馬の違い | ~バカだからこそ伝えたい~柳生龍の作家手帖|小説や詩、坂本龍馬のファンに贈るブログ

~バカだからこそ伝えたい~柳生龍の作家手帖|小説や詩、坂本龍馬のファンに贈るブログ

柳生龍と木夕が執筆した小説や詩、坂本龍馬に関する情報をお届けします。柳生龍の作家への道のり

                       はじめに


筆者はこの小説を構想するにあたって、事をなす人間の条件というものを考えたかった。それを坂本竜馬という、田舎うまれの、地位も学問もなく、ただ一片の志のみをもっていた若者にもとめた。(八―366 文春文庫の巻―頁を示す。以下同じ)


 これは「竜馬がゆく」の八巻で「竜馬」が、暗殺されるシーンを描く前に書かれた箇所である。司馬遼太郎は「坂本竜馬」という人間を通して、「事をなす人間の条件」を伝えたかったのだ。「なす」というには、二通りの意味が考えられるのではないだろうか。


それは「成す」と「為す」である。「成す」はつくりあげると言った意味であり、「為す」は何かを行うと意味である。


 『竜馬がゆく』は歴史小説の形をとってはいるが、人間形成小説ともなっている。「坂本竜馬」を創作し、その人生を描き、「事をなす人間」を形成していったのである。


私はこの作品を研究するにあたって、まず、疑問に思うことがある。それは坂本龍馬の「龍」の字ではなく、「竜」の字を使っていることである。この件ついて、司馬は窪内隆起氏との会談で次のように語っている。


「なんで、略字の竜なのですか」と。僕ら高知の人間はずっと「龍馬」に慣れ親しんでいましたから。すると「僕は学者じゃなくて小説家だろ。この小説は僕の竜馬だし、自由な竜馬を書くんや」。さらに、「龍馬の方は平尾道雄先生をはじめとする方々にお任せすればええ」といわれました(週刊朝日「「週刊司馬遼太郎13」二〇〇六年四月二十一日)


このように、司馬は小説の「竜馬」と史実の「龍馬」として使い分けることを意識して行っていることが伺える。司馬はこの作品において、数多くのエピソードの創作や、史実の順番をずらしたりしているのである。


司馬は意図的に「龍馬」と「竜馬」を区別し、司馬の「坂本竜馬」という人物を創りだしたのである。私も司馬の「竜馬」と「龍馬」を区別して、話を進めていきたいと思う。「坂本竜馬」を通し、「事をなす人間」とは何か、それを本論で考えていきたい。


 また司馬独特の歴史小説の書き方として、その後の歴史を述べ読者に歴史解釈をさせる方法を取っている。


詳細は本論に任せるとして、そこにはその後歴史を調べ、さらには戦争などその後の歴史を体験した、司馬の歴史観がそこには隠されているとはいえないだろうか。本論では、司馬の持つ歴史観について合わせて考えていきたい。


続きはこちら「凡例」⇒


『竜馬がゆく』の考察 目次


ランキングにご協力ください。

にほんブログ村