表千家 不審庵。。。 | 常常日記

表千家 不審庵。。。

暇にまかせて臨済録を読んでたんだけど、千利休の不審庵

ひょっとしたら、臨済録のなかのエピソードから、命名されたんじゃないのかなー???

っと、ふと 思ってしまった。。。。


このエピソードです:
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師因一日到河府、府主王常侍請師升座。時麻谷出問、大悲千手眼、那箇是正眼。師云、大悲 千手眼、那箇是正眼。速道速道。麻谷曳師下座、麻谷却坐。師近前云、不審。麻谷擬議。師亦曳麻谷下座、師却坐。麻谷便出去。師便下座。

ある日、師は河北府の役所に出向き、その長官である王常侍が説法を依頼します。時に麻谷というものがいて質問をします、慈悲にあふれた千手眼は (観音さま)、どの眼を使って見ているのでしょうか? 師が、慈悲にあふれた千手眼は、どの眼で見ているのだろうか? とそのまま繰り返し、即言え、即言え、と麻谷に詰め寄ると、麻谷は師を引きずって座から降ろし、自分でそこに座ります。 師はその座のすぐ前に来ていいます、まだわかったとは言えないな。麻谷がそこで固まってみせると、師はまた麻谷を座から引きづって降ろし、また自分がその 座に座ります。麻谷はすぐにそこを出ていきますが、それを見た師もすぐに座を降ります (注9)。


(参考文献:http://marihouse.biz/kokoro/rinzaiR2.htm  )

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主客の対等、同一、交替がおきているのである。 (参考文献:人格の形而上学的問題
もっとも当時の茶人は、もちろん、この臨済録のエピソードは知っていたはずだから、
不審庵の名前にこめられている意味は、よく解っていたと思ひます。。。。

茶の湯の本来をあらわしているとおもふ。 もっとも、千利休は、切腹するはめになっちゃいましたけど。。。

あと、臨済録には、無位の眞人 なるキーワードがあるんだけど、
これは柳生新陰流の説くところの、真実の人 と同じ概念であろう。
眞仏は無形、眞法は無相  なんていうのも、
柳生新陰流にでてくる、無形の位 が想起されて、おもしろひのである。

そうなってくると、ツイッターでつぶやいている人たちを宝珠にたとえると、
一つの宝珠にはいっさいの宝珠が映っており、
全ての宝珠が一つの宝珠を映している。

これは、一即一切、一切即一の華厳的イメージなのである(笑)。