白洲次郎 占領を背負った男 より
日本の公用語が英語だったら。
英語学習者であれば、誰でも一度は考えたことがあるのではないでしょうか。
ないっすか?
日本の公用語が英語だったら、こんな苦労して英語のお勉強をする必要なんてないのになあ、と。
日本の公用語が英語の世界線。
実はこれ、全くの僕の妄想というわけではないのです。
アメリカ占領下の日本で、実際に構想にあがった話だったのです。
三布告
昭和20年8月。
第二次世界大戦において日本は降伏。
アメリカはGHQの占領下政策で3つの要求をしてきます。
いわゆる「三布告」と呼ばれるものです。
1.日本語の廃止・英語の公用語化
2.司法権の委譲
3.日本円の廃止
こうして並べるとかなり恐ろしいですが。
一番の問題は「2」の司法権です。
司法とはつまり裁判です。
司法の権限を渡すということは、罪の有る無しをアメリカの好きなようにさせるということと同じです。
これは、当時の敗戦処理を背負っていた日本側の人々にとって、絶対に絶対に避けなければいけないことでした。
なぜならば、天皇陛下の処遇につながっていく話だからです。
当時のアメリカには「昭和天皇を戦犯として裁判にかけて死刑にしろ!」という強硬派な人達もいました。
そんなアメリカに司法を奪われ裁判を好き勝手やられたら、天皇陛下がどうなってしまうかわからない。
「1」の日本語廃止や「3」の日本円の廃止で部分的にでも譲歩してしまえば、「2」の司法権に対してもなし崩しに押し通されてしまうかもしれない。
当時の日本には、三布告を1ミリたりとも絶対に受け入れてはならない事情があったわけなのです。
幸いなことに、アメリカと一言で言っても一枚岩なわけではありませんでした。
「天皇を戦犯に!」という強硬派もいれば、「天皇を処刑する事になれば日本は激烈に反発し、混乱する。統治どころではなくなる」という現実派や穏健派もいました。
占領下政策を推し進めていたGHQ最高司令のマッカーサーも、天皇を戦犯にすることに対しては反対だったと言われています。
そんなアメリカの間隙をつき、白洲次郎さんはじめとする敗戦後の日本を背負った人々の工作もあり、三布告は取り下げとなりました。
これが、英語が公用語だったかもしれない世界線の分岐点です。
もうひとつの日本
抱き合わせになっていた「司法権の剥奪」を阻止するため、一緒に立ち消えとなった英語の公用語化ですが。
もし三布告とは違う形、違うタイミングで、例えば天皇制の存続が担保されたあとに、「公用語は英語に」という要求やそのような潮流が生まれていたら、その結果がどうなっていたかはわかりません。
白洲次郎さん自身、青年時代はイギリスで9年間もの留学生活を送っています。
感情が昂ぶってくると、日本語よりも英語が口から出ていたそうですから、英語はかなり体に染みついていたと思われます。
敗戦国日本の代表として、戦勝国アメリカに対し一歩も引かず渡り合えたのもこの英語力があったからでしょう。
そんな白洲さんが、公用語の英語化を本音のところでどう考えていたのか。
「英語はいいぞ。おおいにやれ。世界を相手にやりあってこい」と大手を振って賛成してくれる白洲さんを思い浮かべてしまうのは、僕の勉強不足でしょうか。
ご存命であれば、白洲さんの畑を手伝いながら、その腹の底を訊いてみたい気持ちになりました。
白洲さん、日本をありがとうございました。