相変わらず高校時代をまとめることができない、不可解すぎるから。何とか一言残すなら、「西高の奴らがみていた俺は、俺でない」ということ。奴らがあまりに悪意に満ちていたから、俺は3年間、真ん中に立つことをやめてやっていた、非常に簡単にいえば、そんなところだろう。

 

 高校をまとめきらなくては、青山時代も、不本意な新卒での就職も、転職についても、教員時代も、大学院を3度も修了したことも、句作についても書き進むことができない。しかし今日は、寄り道をして「その先」を。

*明日から、例のワクチン接種のため都内へ行かねばならず、外出などすれば、このご時世では、「その先に人生があるのか、わかったものではない」との気持ちもある。

 

 新卒で「不本意」に入社した東急グループ(*希望のマスコミ試験は皆、教育実習と重なっていて、青山に戻った頃には「全て終了」していたうえ、第一希望の新聞社は「キャリア採用オンリー」で不可)での「18時間労働」でからだをこわし、書いてきた様にジャパンタイムズは入社時の説明とは異なる部署に私を配置し、「一生涯そこで」と私を追い込み、結果ストレス症に至るも「お前に働く気がないからだ」と言い捨てたのみ。3校で英語教員をつとめはしたが、「ただ大学にもぐりこむことだけを考えている奴らで一杯の附属校」「目の前で何が起きているかすらわかっていない、全員放心状態の底辺の学校」「高校で教えるべきことを”全く”教えていない怠惰な私学」と、赴任校に恵まれなかった。大学院3校で言語学を研究し、論文も学会発表も残したものの、大学の教員採用には「裏」が多すぎ、10校真正面から受けても、まともに話すらきく姿勢がなかった。「何となく」「ある日突然」句を作り出し、「やるなら本格的に結社で」と飛び込みはしたが、「感性に優れている」と勘違いしている人+結社内のパワーバランスに乗っかって生きている奴+何も持っていない人達の集合体に過ぎず、僕はその頃には「ありとあらゆる、自分が持ち得る人生の可能性を使い切った」と思っていた。途方に暮れる状況であるはずなのだが、「途方に暮れることにすらつかれた」有り様で、おまけに、教員時代に抱え込んだ新たなストレス疾患にも悩まされ、体調は最悪で、もはや人生の今後のメドなんて、たつはずもなかった。

 

 そんなタイミングで、僕の人生に「自分の勝手な都合」で飛び込んできたのが「ちゅうじょう ようこ」だった。高校教員時代に文法・リーダー・長文と2年間に渡り様々な講座を担当してはいたけれど、退任にあたり挨拶にもこなかったし、本人が大学で楽しんでいた期間中には「賀状一枚」すらよこしたことはなく、連絡が入ってきたのは、全くの「相手の都合で、いきなり」だった。

 

 簡単に書いてしまえば「卒論必須なのだが、あまりに大学時代の学業成績が悪く、そもそも文学部とは何をする場所かすらわかっていない」がゆえ、「指導教授にすら完全に捨てられ」、どうやって入社を決めることができたのかわからない都銀入行前に、何とか卒論を終えたいがため、僕が文学部卒業であることを思い出し、助けを求めてきたというところか、全くもって「ただの勝手」だ。

 

 とにかく「すり寄り方」が尋常でなく、大学4年生にもなっているというのに無警戒に(*それも計算なのだろうけれどね)私の部屋へ平気で通ってくるわ、性的なことに関し「完全に無防備」であるわ、更には、これは病人に対して最もやってはいけないこと、と私は今でも思っているのだが、「先生、病気は一緒に治そう」と、これからを寄り添って生きてゆくことまで示唆した。人生の可能性使い果たし、社会に絶望し、体調的に生き続けることすら無理だなと諦めきっている人間にそこまでことばをかけるわ態度で示すわでは、「弱りきった」僕が「完全にいれこんでしまった」のも、今考えても無理ないことだと思う。

 

 「卒論とやら」は読んでみれば「ひどいなんてものではない」ひどさで、「講義の終わりに走り書きする感想メモ」でしかなかった。それを何とか「卒論らしきもの」にするまでの期間、私は使われることになる。驚いたのは、英文科の学生だというのに、在学中に「原書一冊も読んだことがなく、講義は全て日本語」だという点。大学というのは、本当に選ばれたところに入らなくては、まともな講義は受けられないのだなとあらためて思った。

 

 当初からの予想通り、卒論が仕上がると、彼女はぱったりと姿をみせなくなり、ご丁寧に電話番号まで変え、卒業までの残された日々は「海外旅行とスキー」に全て費やすとかほざいていた。そんなのを抱えるのだから、都銀ってのも不可思議な集団だなと思ったものだ。

 

 それからの僕の「ボロボロぶり」はひどいもので、その後三か月位は「どうやって生き抜いたのか自分でもわからない」放心状態。既に「人生の可能性ゼロ」のところに、そうしたメンタルダメージをくらったものだから「精神エネルギーゼロ」状態に陥り、結社の句会に顔を出せる程の句数は発表し続けたものの、上述の「とんでもない元教え子」が勝手をやらかしていってからの10年は、「もう2度と社会とも関わりたくない」状態で、どうやって自分は10年を生きたのか、更には、社会は10年間どの様に推移したのかすら覚えていない。

 

 そこまで僕は、この一件で、憔悴しきったままだった。あちらはどこかで「気楽で裕福な」お母さんでも気取っているのだろうが、僕は今でも彼女の「極めて無責任で極めて失礼」な、僕の人生に対する介入を、許していない。最後の瞬間まで、許すことなんてないだろうね。