昭和30年頃から、関西歌舞伎は不況時代となります。
二代目鴈治郎さんと扇雀さん(坂田藤十郎さん)が東宝へ行き、
鶴之助さん(富十郎さん)が東京の菊五郎劇団に。
二代目延若さん、三代目梅玉さん、寿三郎さんは亡くなり、
関西の歌舞伎界は本当に寂しい状態となっていました。
世の中の景気自体も悪くなり、芝居の入りも悪くなる一方。
昭和36年3月から翌37年9月まで、大阪での歌舞伎公演は皆無。
その頃、逆に東京では十一代目團十郎さんの襲名によって歌舞伎ブームとなり、
毎月芝居が開いていました。
長男の秀公さん(我當さん)は二代目松緑さんに預かってもらっていましたが、
次男の秀太郎さん、三男の孝夫さん(十五代目仁左衛門さん)には
勉強の場もなく、十三代目さんは大変悩みました。
「しかし、今この衰微した関西を見捨てて私までが東京に行ってしまったら、
東京へ行きたくても行かれない人々、その人達はどんなに心細い気持ちになられることか。
私一人が残ったところで関西の俳優達に何をしてあげられるわけのものでもないのですが、
こうした思いとともに、京都を発祥の地とし、関西の名門といわれている家系の
十三代目を襲った私が、現在この有り様の関西を見捨てては、
片岡家の元祖は言うに及ばず、何代もかかって上方の芝居を
ここまで築きあげてきた先輩達にこれほど申し訳ないことはないではないか。
何としても上方の芝居の灯を守らなければ・・・と
いう気持ちが、迷いが起きる度に、かえって強くなるばかりでした。」
大幹部と呼ばれる役者で関西に残ったのは、とうとう十三代目さんと
林又一郎さんの二人だけになってしまいました。
時たま、関西在住の役者さんに会うと
「お互いによくまあ、生きていますなア」
というのが挨拶だったそうです。
十三代目さんは大阪松竹の白井会長に会いに行きます。
「このままでは関西の歌舞伎は絶滅してしまいます。会社の営業方針として歌舞伎が
上演されないのなら、劇場を貸して下さい。個人公演でも芝居をしたいと思います。」
白井会長は十三代目さんのことを思って、十三代目さんの発言を諌めます。
「あんたの気持ちはよく分かる。しかし、もう関西では歌舞伎は駄目になって
しもうたのや。歌舞伎とうたうだけでお客はそっぽを向いてしまう。
会社も大勢の社員を養わなければならないので、みすみす損をする商売はできん。
それに自主公演などとんでもない。そんなことをしたら大変なことになる。
そんな大それた考えは持たんように。これは私の老婆心から忠告する。」
白井会長は思いつめた十三代目さんが、本当に心配だったのでしょう。
しかし、十三代目さんは胸が張り裂ける思いで、唇をかみしめました。
「私の大事な宝である歌舞伎を、もう駄目なんだという一言で、いとも簡単に
片づけられてしまうことはその時の私には命を取られるよりも辛く口惜しい言葉でした。
第一、歌舞伎は駄目だと言っても、真当な歌舞伎は少しも上演されていないではないか。
自分の納得のいく芝居をやった上で、それでも駄目なら歌舞伎と心中しよう。
とにかく思い切り芝居をした上で死にたいと、そんなことばかり考えていました。」
この頃から十三代目さんはお芝居だけでなく、講演にも飛び回るようになります。
千人の聴衆の中からたとえ一人でも二人でも、歌舞伎を見ようかなと思う人が
出て下されば・・という気持ちからでした。
勿論、松竹も歌舞伎に対して何もしなかった訳ではありません。
昭和37年6月、南座で関西の役者だけで芝居が開きました。
久しぶりの地元の芝居で、十三代目さんも懸命に勤めましたが、
残念ながらお客様の入りがひどく、松竹はやはり関西では歌舞伎は駄目だと
再認識してしまったようでした。
この公演の中日を過ぎた頃、松竹の方が楽屋に見え、
「自主公演をするなら8月の文楽座があいているので、お貸ししますが・・」とのこと。
その晩、片岡家では家族会議がもたれました。
莫大な借金を背負うことになるかもしれない自主公演。子供は八人の大家族。
十三代目さんは自分から言い出したことではありましたが、ためらいがありました。
「しかし、今、この機を逃したら、もう、それこそ再び大阪では芝居はできまい。
そうすれば役者としての自分の命も、もうこれまでだ。」
そんな十三代目さんの心を読み取るように、喜代子夫人が言います。
「やりましょう。これはどうしてもあなたがなさらなければならないことだと
思います。どんなことになってもこの家を手ばなせば、人様に迷惑をお掛けせずに
済みましょう。いたしましょう。どうぞ、なさってください。」
子供達にも、父親の気持ちが通じていたのでしょう。
「お父さん。やりましょう、やりましょう。」
ここから、松嶋屋家族一丸の奮闘がはじまります。
「私は嬉しかった。もやもやした胸のつかえがいっぺんに吹き飛んで、
猛烈な闘志が 湧くのを覚えました。」
十三代目さんは、まず、関西の演劇担当の記者の皆さんに集まって頂き、
協力を求めます。記者の皆さんもわが事のように興奮し激励して下さったそうです。
そして公演の名前は「仁左衛門歌舞伎」となりました。
十三代目さんはおこがましいと逡巡したそうですが、この名前は記者の皆さんの満場
一致で決められたそうです。
狂言についてもあれこれと意見がわかれましたが、十三代目さんの持論、
「戦後、歌舞伎に馴染のない人達に長い物語の一部をコマ切れに上演しても
なんのことやら分からないから面白くない。だから狂言は是非とも「通し」ですべきだ。」
が実現します。
昼の部は『ひらかな盛衰記』の通しと『恋万灯』
(十三代目さんご長女が作詞・構成した踊り)、夜の部は『夏祭浪花鑑』の通し。
開演時間は、昼はお客様がお昼ご飯を済ましてから来ていただけるように1時開演。
夜は会社が終わってから来ていただけるように5時40分開演。
切符代も当時の歌舞伎の値段からすると半額ほど。これは劇場使用料、
大道具、小道具、衣装、床山が「松嶋屋が頑張るのやよって・・」と、
とても安く勉強して下さったこと。共演の役者さん達もお給金のことを言う人はいなかったこと。
随分あとになって、白井会長が陰から皆に「あんじょうしてやってや」と
気を遣ってくだすってたことも分かります。
でも、皆さんもとても歌舞伎がしたかったのだろう、その気持ちからだと思います。
番附(筋書)の表紙は十三代目さんが描き、あらすじと解説は喜代子夫人が書き、
娘さん達も広告を取って歩き、交渉事を引き受け・・番頭の伊藤さんもともに、
一つ一つのことをクリアしていきます。
そして切符の前売り開始の朝、前売りにお客様がいっぱい行列してるという
電話が入ります。
前売りへ切符を買いに来る人なんて、一人か二人、それもないかもしれませんよ。」
と言われていたのですから、もうこの時点で既に、十三代目さんはうれし涙でした。
そして、いよいよ初日。開演時間が迫ると異常な空気が楽屋にも伝わってきます。
「いっぱいや」「いっぱいや」という声も聞こえてきます。
十三代目さんが舞台の幕だまりから覗くと、立錐の余地もない有り様。
「お客様も上気してられるように活気だって見受けられました。
私は胸がいっぱいになりました。感激に浸りながら紋付き、袴を着けると幕外へ挨拶に出ましたが、
この時の、劇場も割れるかと思われるような熱気あふれる拍手と声援は、
私の長い役者生活にもかつてないことでした。こんなに沢山の方々が歌舞伎を見ることに、
これほど熱狂してくださるのかと思いますと、嬉しくて嬉しくて挨拶する私の頬を
熱い涙が止めどなく流れるのでした。俳優達のやる気と、お客様の見る気は、
異常な興奮状態を醸し出して素晴らしい公演となりました。」
この公演中、ロビーにアンケート用紙を出したところ、実に沢山の方がご記入くださったそうです。
「今回の通し狂言は、いままで知らなかった筋がよく分かってよかった」
ということと、希望としては「古典歌舞伎の通し上演」が多かったそうです。
こうして昭和37年8月19日から26日までの8日間の自主公演は、連日大入り満員で、
奇跡的ともいうべき大成功をおさめました。
「仁左衛門歌舞伎」はその後、第五回まで続き、発展的解消をします。
関西での歌舞伎の公演数が増えたことで、初期の目的を果たしたからです。
「必死ではなく決死の思い」
穏やかな十三代目さんの素顔からは想像できない、誰よりも誰よりも強い、
歌舞伎に対する愛情と情熱、そしてその心を支えたご家族。
「仁左衛門歌舞伎」の成功は舞台側・役者さんと裏方さん達、そして客席側・
お客さん達の歌舞伎に対する愛情の奇跡であり、
そして十三代目さんのご家族の愛情の奇跡であったと思うのです。
参考・『役者七十年』十三代目仁左衛門さん著