松山市住宅情報館 館長日記 「豊臣兄弟、地獄の特訓」
NHK大河ドラマ「豊臣兄弟」が始まった。現在の名古屋市中村区となる尾張の国・中村という村に生まれた兄弟が、日本を統一するまで登り詰めた物語だ。のちの秀吉・藤吉郎とその弟・秀長・小一郎、兄弟の物語である。時は戦国時代・下剋上の真只中である。侍も百姓も盗賊までも、生き残ることに命がけの時代である。侍も百姓も盗賊も強くなければ生き残ることが出来ない。国主への年貢と盗賊による強奪、武士でない百姓だって安心して暮らせない時代である。
時代は違うが現代のプーチン氏・習近平氏・トランプ氏による統治(優勝劣敗志向)と似たところがある。戦国時代に大義や国際法は通用しない。藤吉郎は織田家に仕える武士・浅野長勝(寧々の父)の家来になっている。家来と言っても足軽にも足らぬ雑兵だ。それでも浅野の屋敷で盗賊と戦い、弟・小一郎の命を救うために、盗賊殺しの経験をしている。豊臣兄弟の出世物語は、この荒んだ理不尽な田舎社会が原点になっている。
今日の見どころは、浅野家師範による厳しい武芸の稽古(戦闘訓練)風景の中にある。藤吉郎の木剣と師範の木槍による厳しい格闘(稽古)の中に大事な要素(真実=成功哲学)が隠されている。木槍に突かれ叩かれ、殴られ蹴られ、藤吉郎が半殺しの目に合う格闘風景の中にある。何度も打ちのめされる。終わらぬ格闘で息が切れる。身体中が怪我だらけ青煮え状態になる。本物の戦(いくさ)では相手を殺すか、殺されるか、休憩の無い死闘になるのだ。戦場(いくさば)での真実とは、ギブアップした者•闘魂の尽きた者が死ぬと言う現実があることだ。敵を殺すこと。自分が生き残ることが最優先の正義となるのだ。
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本来、武芸の稽古とは命を掛ける戦いなのだから死闘の稽古となる。「獅子の子落とし」と言う格言がある。ライオンは生まれたばかりの可愛い我が子を、千尋の谷に突き落とし、這い上がってきた子のみを育てる。と言う言い伝えがある。獅子の子落としは、弱肉強食の厳しい世界を生き残る為、子供への最愛の贈り物なのだ。
この特訓は愛のムチなどと甘ったれた稽古ではない。死ぬか生きるか、生き残る為の、強い子供を創る為の特訓なのだ。地獄の特訓は、部下を強くし、部下を自立させる究極の愛・究極の正義に行き着く。厳しければ厳しいほど、結果的に利他愛になるのだ。残念ながら現在、この厳しさを理解できる者がいない。
昨今では日本中がハラスメント(虐め)だらけだ。学校で、職場で、家庭で、弱い者虐めが日々起こっている。現代のパワハラは、強い者が弱い立場の者を一方的に虐める卑怯な虐め方になっている。信念のない指導者はパワハラと言う言葉に怯え、本来の愛情深き厳しい指導(愛の鞭)を避ける傾向になってしまった。
日本には西洋の騎士道に勝る武士道精神があった。武士は食わねど高楊枝、私は惻隠の情という言葉が好きだ。日本には弱きを助け強きをくじく任侠道とか義侠心があった。教育勅語精神がなくなった戦後の日本では、自分勝手が横行し、陰に隠れて、弱い者虐めをする卑怯な振る舞いをする上役が多くなった。卑怯な弱い者いじめを許してはならない点は私も同感だ。
しかし、平和ボケした日本社会と、厳しさを否定する昨今のマスコミは、働き改革の名の元で、往々にしてスポーツ教育や職場教育における「愛の鞭」を「パワハラ」と短絡的に同一視する傾向がある。この短絡的同一視が私には納得できない。この2者を同一視とすれば、日本の伝統的な鍛錬教育がダメになる。「獅子の子落とし(愛の鞭)」と「弱い者虐め(虐待)」とは、行為は同様に見えても天地の差がある。愛ある行為(大善)と判断されるか、虐待の行為(大悪)と判断されるかで、評価が真反対になるからだ。
重要なことは過酷な訓練・命令において、指導者(強者)と、部下(弱者)との間に、信頼関係(指導方法の確認)があったかどうかによると思う。それをサポートする管理体制も大事だと思う。管理者やマスコミはその辺りまで見極めて検証すべきだと思っている。
今や愛の鞭と言う言葉は使ってはならない言葉になってしまった。私は日本が強くなるため、母校が強くなるため、日本の素晴らしい言葉である「愛の鞭」という言葉と行為を復活すべきだと思っている。時代錯誤も甚だしいと叱られるかもしれないが、私の経営は柔道の心技体、心(精神力=信念と闘争心)で負けないこと、ネバーギブアップ精神で生き残ることだった。私はあの厳しかった先輩と、あの厳しかった上司に、出会っていなければ、今の自分は無かったと思っている。