芝立神 (2009年3月)

(久慈付近から , 左:加計呂麻島・右:奄美大島)

 

 前回に続き芝です。芝立神を紹介しないわけにはいきません。

 

 奄美には15ほどの立神(岩)があり、その多くはネリヤカナヤからの来訪神の足掛かりに相応しく堂々たる姿形が目を惹き、大抵は観光スポットでもあるのですが、芝の立神は地味です。その地味さに逆に気高さを感じる印象深い立神です。

 

 サイズはおそらく最小。位置も集落からは少し見にくく、浜一つ隔てた岬の沖。岬から連なる低い岩礁の先にやや大きい尖った岩があり、これが芝立神です。

 色も灰がちで、狭い海峡内に位置するため背景に本島や加計呂麻の島影が重なることが多く、景観の中で目立ちません。(冒頭の写真は稀少なアングル。本島側から撮っています)

 朝の芝集落から望遠で(2009年9月)

 

 そんな芝立神が名高い一方で、集落近くで目立つのに立神と名の付かない◯◯岩や◯◯島も多くあります。立神には相応しい姿形や位置があるらしく、あまり大き過ぎたり近過ぎ・遠過ぎはダメなようです。(例外あり)

 海の彼方から来訪する神がいよいよ島へ渡る時の足掛かりです。近過ぎたり大き過ぎるものは島の内と見なされ「もう渡って来ちゃってるし・・」になってしまいます。遠過ぎると、迎え入れる集落側からは神様が来てるか来てないか分からないし、神様側としても招聘神事の祝詞が何言ってるか聞こえないし、大股開きで渡るのも困るわけです。

 (ちなみに遠くに目立つ岩礁は集落とは隔絶した存在で「トンバラ(飛び離れた地)」と呼ばれたりします)

 

 立神であるために何より肝心なのは、来訪神を迎え豊穣を祈る信仰に適うか?で、見た目もさる事ながら、シマ(集落)の神を敬う心にリンクするかどうかの一点です。

 芝立神に気高さを感じてしまうのは、地味なのに立神=それだけシマの心を集めてきた、と理解するからかと思います。

 

 面白いことに「奄美 加計呂麻島のノロ祭祀」(松原武美著) の芝の項には、集落東の小さな突端が「ワキンノハナ」と呼ばれ「神女たちがここへ集まって何かした」との記述があります。東の突端は、西の岬に隠れ気味な芝立神を最もよく眺められるポイントです。立神に関連する神事が行われていたのかもと想像されます。

  ( 別に「タカバチ山の峰に祀られる神様が降りてきて相談するところ」との記述もあります)

 

 芝は大島海峡の航路に面しているため、古仁屋へ出入りするフェリーからよく見えます。芝立神がランドマークです。

 

 芝全景(2009年9月 , フェリー「あまみ」より)

 右に立神、中央の浜を隔てて左に家並が望める

  立神と集落の間の浜

 

 

 

 

 月下の芝集落 (2025年7月)

  右、海峡口の遠景は江仁屋離(えにやばなれ)

 大島海峡の西口に近い花天 (けてん) 付近から眺める加計呂麻島・芝の灯です。

 芝は少し懐かしい集落です。奄美に通い始めた当初は本島だけで十分かつ手いっぱい。ようやく加計呂麻島へ渡った頃に泊まっていたのが芝でした。

 当時の加計呂麻は宿が少なく、特に西側は芝にあったペンションくらいでしたが、なかなか落ち着ける宿で、カツオ漁で栄えたという何処となく風雅な集落も気に入り定宿に決めたのでした。

 

 芝集落(2009年3月)

 加計呂麻の宿はコテージ的な平屋が多いのですが、ここはコンクリート二階建て。ペンションというより洒落たビジネス旅館風で、そのカッチリした雰囲気も好感触でした。

 芝漁港と大島海峡が目の前で眺めも絶好。

 部屋の窓から(2009年9月)加計呂麻バス通過中

 ちょうど宿の前に護岸の凹みがあり、そこで複雑に反射する小波の不規則な、ちゃぶ・ちゃぶん・ちゃぶちゃぶ・ちゃぶん・ごぼっ・ちゃぶっ・・・を聴きながら眠りにつくのが至福の時だったのですが、残念なことに数年後に閉業してしまいました。

 

 この宿で教えてもらったのが「どぼくりごく」です。

 奄美と言えば黒糖焼酎。水,お湯,炭酸割りなど色々ありますが、パッションフルーツ割り・・と言うか、割りパッションフルーツで呑むのが「どぼくりごく」

 作り方は簡単で、パッションフルーツを上から2/5ほどのところで切って下を使います。そのまま焼酎をドホッと注ぎ、スプーンを突っ込んで皮の内側についた種と実を剥がすようにクリクリ掻き回します。(焼酎を注ぐ以外は普通にパッションを食べる時の作法) あとはゴクリと呑むだけ。まとめて「どぼくりごく」です。(命名は自分達夫婦,写真はドボ直前)

 黒糖焼酎は香り控え目のスッキリ系が合います。いけるんだわ~。問題はストレートに近いのにパッションに騙され次々いけちゃうこと・・。教えて貰ったその晩にダウン。翌日は朝食抜きで、酒豪だった妻が運転する車の助手席にグッタリしたまま見送られたのも(今となっては)懐かしい記憶です。

 

 建物は今もしっかり残っていて、前を通るたびに懐かしく見やります。本島からも海峡越しに遠く小さく白い二階建てが確認できます。一番ノーテンキな頃だった・・としみじみしてしまう眺めです。

 

 (最後に一応ブログテーマの奄美の夜)

 そんな芝ですが、冒頭の夜景撮影中は不思議なほど個人的な想いは希薄でした。

 膨大な闇に覆われ、芝も「集落の灯」と認識されるだけ。視覚情報に頼りがちな頭の中の想いは消え、代わって聴覚(さざ波や遠い船のエンジン音)や触覚(風や寒暖)など、より本能に近い知覚が研ぎ澄まされ「今この時」が優勢になります。奄美の地とダイレクトに繋がる瞬間です。

 夜遅い撮影はやはり怖いのですが、闇の力を借りて奄美に溶け込むための代償でもあります。

 

 屋鈍浜 (2004年7月)

  屋鈍崎先端の台形が「ハナレ」、右遠景は枝手久島

 

 No.5で「あまり行かないけど・・」と題して紹介した屋鈍 (宇検村) ですが、実は最近よく行ってます。

 前にも書いたとおりメインルートから大きく外れた行き止まり集落で、行きにくいし行く理由もあまり無かったんですが・・。事態急変の原因がこれ。

 何も無かった屋鈍にいつの間にか出来ていた「やどんカフェ 1ー1(いちのいち)」と併設の「やどんコテージ」

 

 まさか屋鈍に泊まれる日が来るとは・・と、2年前に興味本位で一人で行ってみたんですが、セルフビルドの洒落た(でも気取りの無い)造りがアラ!?いい感じ。何よりカフェの内装や本気のパンや焼き菓子にピンときたのが「これ絶対うちの奥さん好きだわ」でした。それで翌年の夏に試しに連れていったら・・やはりハマったのでした。

(真ん中の赤屋根がコテージ。道路を挟んで目の前に冒頭の写真の海が広がります)

 よく行く加計呂麻のしっとり感に比べると、屋鈍は雄大というか粗いというか、奄美大島にしてはカラッとした土地なんで、カフェは気に入っても屋鈍そのものはどうかな?と思っていましたが合格。(やはり海の水の透明度に感嘆してました)

 これで事態が一変。あまり行かない屋鈍→よく行く屋鈍になりました。

 

 私としても、あまり足を向けてこなかった宇検村西部に通うのは新鮮味があって歓迎ですが、厄介な事にもなっています。やはり行きにくいんです。

 奄美では行きたい場所がヤマほどあり、更に25年も通えば馴染みの宿や知合い宅、病院(お見舞い)まで色々と行かねばならぬ先も出来ています。いつも滞在計画に悩むんですが、そこに別地域の行き止まりにある屋鈍という難問が加わった感じです。

 

 先日も3泊の短い旅程に何とか屋鈍を組み込み1泊してきました。奄美では珍しいミゾレ混じりの嵐の日。寒いわ慌ただしいわ。

 大荒れの焼内湾 (2026年2月)  左遠景が屋鈍崎

 

 とりあえず2回行ったから妻も満足かと思いきや「次はもう少し暖かい時に2泊だな〜」って、他はどうする⁉︎と思いつつ・・私もその気にはなっています。

 

 

 

 それにしても屋鈍は「ハナレ」です。遠くからでも目立つ屋鈍崎の先端の台形。屋鈍のシンボルですが、観光名所というわけではないし立神としても扱われていないようです。でも別種の神々しさ。デン!と鎮座する感じが屋鈍ぽくて好きです。

 屋鈍崎 (2024年2月)

 

 

 

 「奄美の歴史」(浜田敬助著)

 徳之島出身の著者(出版社からの著作もある方です)による自費出版らしきコンパクトな奄美の歴史解説本です。

 20年程前に名瀬の古書店で購入。数ある歴史書の中から最初にこの地味な本を選んだ理由は、読みやすそうだったのと値段の安さです。裏表紙にデカデカと設備や電話番号のメモがあり特に安い1冊でした。

 

 奄美人のルーツから始まり、短い奄美世、琉球王朝,大和(薩摩藩),大戦後のアメリカの各統治時代を経て1953年の日本復帰までを時系列に扱った内容は、題名そのままに簡潔で分かり易いものでした。

 

 特に心に残ったのは、薩摩藩の換糖上納による収奪 (稲作など自活農業を禁じサトウキビ栽培を強いたいわゆる「黒糖地獄」)についての「砂糖一斤(約600g)玄米三合三尺」など具体的で詳細な記述と、明治以降の自由売買の時代に至ってもその布達が伝えられず、官(県)の便利な所有物のように扱われ混迷を続ける奄美の姿でした。

 圧政に耐えかね、奄美各島から55名の陳情団が鹿児島県庁へ渡航しますが、兇徒として全員が重罪房に投獄されます。そのまま半数以上は折からの西南戦争に「志願兵」として従軍。残った者も奄美へ送還途上に悪天候で海没。生還者は数名という悲劇をみます。(一部は「苦い砂糖」原井一郎・高城書房を参照)

 

サトウキビ畑と製糖工場(喜界島 2002年11月)

  後の喜界島騒動などを経てようやく自由売買が出来るようになりますが、今度は群がる商社に手玉に取られ、再び官(県)による保護名目の干渉を受けて更に分断・混迷の度を強めます。

 

 奄美を知ろうとすると、絶えず外から見下され翻弄されてきた歴史、特にその背景を知ることが必須になります。教科書的ですが「奄美」としての主体性が出来る前に地域レベルで琉球王朝に組み込まれ、続けて大和(薩摩)の支配下に置かれてしまった社会的背景と、どちらに属しても琉球からは北,大和からは南に遠く離れた半領土として継子扱いされる地理的背景がそれです。

 著者もシマ唄が哀調を帯びている理由に、島の地理的環境と並べ「虐げられ続けた歴史」を挙げています。

 

 ただ、琉球から見て北の端,大和から見て南の端という事は、全体で見ると中央という見方も出来るんですよね。「奄美の歴史」を読んで以降、次第に私は奄美を日本の結び目だと思うようになりました。

 結び目から北と南を眺めると色々なものが見え、その先に重層的な世界の景色が見えて来ます。

 

 私の奄美好きの理由は、突き詰めると「温暖で心地良いから」という単純なものなのですが、その心地良い風土の裏に世界の視座を隠し持つ悲しいまでの「凄み」も私を捉えて離しません。

 

 世界の視座はさておき、私にとって文献紹介1の「奄美民俗雑話」が奄美の心のあり様を教えてくれた本とするならば「奄美の歴史」はそこに歴史的背景というタテ串を通してくれた本です。

 初期にこの2冊のおかげで奄美に関する知識の大まかな座標軸が得られた気がします。

 

 それにしても、この裏表紙のメモは見事。前の所有者がどんな人でどんな状況でこのメモが書かれたか?が20年来の楽しい謎です。

 

 拠り所なく北と南の狭間で翻弄される奄美の姿が如実に表われたのが大戦後のアメリカ軍政下での扱いです。

 黒糖を巡り徹底的に管理された奄美は、今度は逆に非大和,非沖縄として無視され時に取り締まりの対象にされます。国とは何か?まで考えさせられる隠れた史実でした。いずれ別の文献から紹介したいと思います。

 いくらなんでも暗過ぎですが、個人的に好きな一枚。焼内湾の入江で名柄(ながら)集落の夜景撮影時についでに撮ったものです。

 

 名柄の漁灯(2024年2月)これでも明るく補正

 

 名柄は宇検村の西方の集落ですが、瀬戸内町久慈へ抜ける峠道の分岐点で、この辺りではやや戸数が多く小中学校も置かれています。夜景も少しばかり賑やかです。

 名柄集落暮景(2024年2月)

 山懐に抱かれた焼内湾の更に深い入江の奥に位置し、落ち着きある佇まいという点では宇検村で一番かも知れません。入江の口あたりからの集落の眺めには何かホッとするものがあります。

 

 ただこれは昼の話し。さざ波すら立たない入江の奥は日没とともに急激に暗くなり静まりかえります。このときは夜20時。カメラの先には名柄の灯があるものの、自分の周囲は真っ暗な山裾。県道脇でしたが、たまに遅い家路を辿る車がある程度の寂しい場所です。

 宇検村はケンムン話(木に棲む妖怪。沖縄だとキジムナー)の多い土地。また、名柄の背後に見える山は奄美では誰もが知っている「かんつめ節」の悲話の舞台・・。なかなかゾクゾクする状況でした。

 

 1時間近く経った頃、初めて名柄側から車がやって来て後ろを通り過ぎたのですが、少し先の木立の陰で停まった気配がして、暫くすると小さな灯がフラフラ浜に降りてきました。どうやら「イザリ」です。(夜間にヤス等でタコや魚を狙う個人漁) 真っ暗闇で姿は見えませんが灯は少しづつ移動していき、時々「チャブッ!」と水音も聞こえます。(この時撮ったのが冒頭の写真)

 奄美の人はイザリが好きで、潮に合わせ夜の海に出ます。昔お世話になった古仁屋のおばちゃんも真夜中に平気で幾つも岬を越えた海に出かけ、朝になると洗面器に入れた大きなイカやタコを自慢げに見せてくれました。

 そんな島人が近くで獲物を漁っているのは頼もしい限り。勇気百倍で撮影を続け、最後はまだまだ動き回る灯を後に宿へ帰ったのでした。

 

 昼下がりの名柄(2004年6月)

 

「かんつめ節」

 名柄の娘・かんつめ(かんてぃみ . 実在が判明している)と山を隔てた久慈の若者・岩加那(岩太郎の尊称)の悲恋を悼むシマ唄。

 かんつめはヤンチュ(身売りされた使用人)。主家に公用で訪れた岩加那と恋に落ちるが、逢瀬を主人に咎められ激しい折檻を受け、世を儚んで待合せ場所の峠で自害してしまう。岩加那はこれを知らぬまま峠の小屋に行き二人で夜通し唄遊びをするが、かんつめは最後にこう唄う

 「あかす世や暮れて汝(な)きゃ夜や明ける 果報節(かふせつ)のあらばまた見逢(みきょ)そ」

 (私のいるあの世は暮れ、あなたの世は明ける 良き時節が有ればまたお逢いしましょう)

 名柄〜久慈の峠には碑が建立されている。

 

 地元では日没後のかんつめ節は亡霊を呼ぶとされ、今でも夜更けの演奏を控える。

 古仁屋の友人で唄者でもあるH姉は、コンクールでかんつめ節を唄うにあたり三味線奏者と峠に御参りに行ったが奏者は怖がって車の中から拝み「私はちゃんと御参りしたよー」と話していた。

 

 初心に帰って夜の奄美です。あえてシンプルな一枚。

 

 網野子集落(2025年1月)

 

 奄美の夜景を撮り始めたきっかけが古仁屋から眺めた加計呂麻島の集落の灯だった事は前にも書きましたが、濃い夜闇に包まれた集落の灯を眺めるのがとにかく好きです。

 

 闇の効果については私が語る必要は無く、100年前に梶井基次郎が著した「闇の絵巻」があります。梶井は闇の中で安息と畏怖の間に揺れる感覚をこう記しています。「私は其処で闇を愛することを覚えた。昼は金毛の兎が遊んでいるように見える谿向こうの枯萱山が、夜になると黒々とした畏怖に変わった」 また、夜の峠に自分がいることも知らず、黒く佇む山々が「おい。いつまで俺達はこんなことをしていなきゃならないんだ」と話し出したと書いています。

 

 少しだけ補足を許して貰うなら、闇による情報の遮断がキーです。山は夜空との輪郭だけの存在になり、それ以外の情報を人の目に与えてくれなくなります。残るのは押し黙った黒い膨大な山容のみ。同様に谷や海、木々までも人との接点を消した存在に化します。風景はもはや愛でるものではなく、原初の息づきを持ち人を圧倒する畏れの対象です。

 そんな中に小さく灯る集落の灯り=人の営みの証は慎ましくも心強く・・・まぁ理屈はともかく、闇の中で独りポツンと写真を撮っている時の、半分は肝試し的なゾクゾク、半分はピュアな奄美を独り占めみたいな陶酔がクセになっています。

 

(冒頭の写真と同じ場所の昼の風景)

 ちなみに左端の山腹をその後ろ遠景の山まで延々登っているのが国道58号旧道の難所・網野子峠。2015年に集落背後からトンネルで抜ける新道が開通している。

 

 朝日が溢れ落ちる今井崎 (2004年10月)

 船上から . 左に安木屋場の立神 , 遠景は笠利崎 

 引き続き北部で、今回は海上からです。

 奄美へのアクセスは飛行機の他、鹿児島からのフェリーが2航路あります。片道25時間かけ沖縄まで行く大型船と「奄美航路」(又は裏航路)と呼ぶ沖永良部まで(徳之島~沖永良部は休航中)の中型船です。

 下りは鹿児島を夕方出航。沖縄航路は真っ直ぐ名瀬へ向かい夜明けに入港しますが、奄美航路は喜界島経由で名瀬は朝7時。長く寝られる後者を選ぶ事が多いのですが・・「本船まもなく喜界島・湾港(わんこう)に入港します」(港の地名が「湾」) のアナウンスが流れると嬉しくなり甲板に出てしまいます。

 喜界入港は朝4時台。大抵真っ暗ですが、まずは「奄美に来たー」と深呼吸。喜界まで来ると冬でも亜熱帯の柔らかい海風に変わっています。

 

 夜明の笠利沖を名瀬へ (2004年10月)

 光は笠利崎灯台

 次の名瀬までは奄美大島北端の笠利崎,今井崎を大きく廻り2時間。もう一眠り・・と思いつつ、いつも船室と甲板を行ったり来たりになります。

 船からは奄美大島の大きさが実感されます。接近してからも行けども行けども黒々とした島影が延々続きます。船の速度はもどかしいほどですが、それが船旅の醍醐味かつ効能。ゆったり雄大な時間と景色の流れと次第に同期し、気のせいか呼吸まで落ち着き、旅の興奮とは別に奥底の心が鎮まった頃、立神に見守られつつ名瀬に入港します。

 

 名瀬入港 (2023年2月) 2月だと7時でも薄暗い

 空をひとっ飛びが多いのですが、やはり海路はるばる渡る方が「正しい奄美の行き方」のような気はします。

 

「今井崎」:奄美大島の北部の岬。

 奄美には平家落人伝説が多い。壇ノ浦に没したはずの平資盛,行盛等は奄美へ逃れて居を構えたという。この岬に北方の源氏を警戒する遠見番を置き、今井権太夫を配したのが名の由来とされる。岬上には今井大権現 ( シマグチで「ぐんぎん」) が祀られている。

 これより古く、地元では岬を神々が集う山(御嶽)として神聖視してきており、権現社の祭礼もネリヤ(竜宮)からの神の招聘など奄美のノロ神事の色が濃い。儀式には広く南西諸島に伝わるヲナリ神信仰の伝説も加わる。

 今井崎には奄美古来の信仰と大和,琉球由来の伝承が重なり合う。日本の結び目としての奄美を感じる場所でもある。

 ヲ(ウ)ナリ=姉,妹(広くは女性)には兄,弟(広くは一族)を守護する霊力が備わるとされる。姉妹神が白鳥(しろとり)の姿を借り荒天の海で船を導く伝説はシマ唄「よいすら節 (舟ぬ高艫節)」にも詠われている。

 赤木名の立神(2024年10月)

 奄美で一番愛着のある土地は2ケ月近く住みついていた古仁屋なので、どうしても南部の話題が多くなるのですが今回は北部です。

 

 奄美大島は南北でかなり雰囲気が異なり、深い森と山に閉ざされた南部に対し、北部はなだらかで開放的です。人口も北部に偏り、何より空港が北端にあるので人の往来が多く観光施設も集中していています。ごく大雑把に、南部はディープ、北部はポピュラーです。

 南部に滞在することが多いのですが最後は北部の名瀬あたりで1泊して帰るのが常です。空港が近いのも理由ですが、ディープな南部からいきなり帰ると何だかマブイ(魂)がついて来ず調子が狂うので、風通しのいい北部で少しクールダウンする感じです。

 翌朝はおとなしく空港へ向かう・・はずが、よく立ち寄るのが赤木名の立神です。

 

 奄美大島北部 (2017年11月)

  加世間峠から 左:東シナ海(笠利湾),右:太平洋

 名瀬から空港へは途中で右折するポイントがあるのですが、ここを直進しても少しの遠回りで行けます。「まだ時間がある」という時の未練がましい寄り道です。

 

 直進すると交通量も減り、笠利湾に沿って静かな集落を次々に抜け、終わりを迎えた奄美滞在が少しだけ巻き戻ります。すぐに北部の拠点・赤木名の町に入り寄り道も終了なのですが、ここに鎮座するのが赤木名の立神(ネガン立神)です。

 

 端正な三角形の立神で、No.1で紹介した名瀬の立神と似ていますが、少し反った姿と前後左右どこから見ても三角である点が異なります。(名瀬の立神は横から見ると特徴無い岩礁なのが御愛嬌)

 姿といい立ち位置といい、ネリヤカナヤの来訪神の足掛かりに相応しい孤高の立神です。田中一村の代表作「クワズイモとソテツ」で密生する植物の間に小さく描かれているのも赤木名の立神と言われています。

 

 対岸の今井崎から(2006年3月)

 由緒正しく雄大な立神の眺めですが、個人的には奄美との暫しの別れの道標でもあり、条件反射的に寂しさを感じる風景になっています。まぁ、赤木名のラーメン屋に行ったついでに眺めたりもするんですけど・・。

 

 「赤木名(あかきな)」 :  笠利湾に面した中金久,外金久,里の一帯を指す地名。合併して奄美市となった旧笠利町の中心地で、規模はさほど大きくないが郵便局,信金,学校(高校を含む)やスーパー,飲食店、更に製糖工場などもあり戸数も多い。空港に近いが周辺観光地や名瀬へのルートからは外れており町並みに落ち着きがある。実は江戸時代に名瀬より先に薩摩藩の代官所が置かれ、当時の奄美大島の政治経済の中心だった土地。(シマグチでは「はっきな」らしいが実際に聞くと「あっきな」に聞こえる)

 

 

 

 

 

 国頭の海岸(和泊町  2006年5月

 そろそろ明るい写真を・・ということで沖永良部です。

 No.9でも触れたように「奄美」は奄美大島を指す場合と奄美群島全体を指す場合があります。地理では後者が正ですが、200Km連なる島々は個性が強く一括りにできません。南に行くほど沖縄の影響も強く、最南端の与論島になると沖縄は眼前。観光客も沖縄の離島感覚で訪れ、迎える側もそのままウェルカムという感じです。(でも島酒は泡盛ではなく奄美の黒糖焼酎「有泉」だったりする)

 与論の一つ北が沖永良部島です。(地元ではオキノを省いて「エラブ」と呼ぶ) ここが奄美と沖縄が半々くらいの処ですが、混在というより双方の色が程よく薄れ、その上に独自の沖永良部色が現れている感じです。

 

 私の沖永良部の印象は「明るく静かな幸せ島」 峻険な奄美大島と違い、なだらかな隆起珊瑚礁の島です。農業が盛んで、ジャガイモやインゲン、鑑賞用のユリの花などを島外に出荷しており、収穫期には積込作業でフェリーの出港が遅れるのが風物詩です。

 奄美大島の方はパッションやタンカンなどが有名ですが、サトウキビ以外の農業はあまり目立ちません。これには地形の他に歴史的な理由もあります。薩摩藩の支配下にあった奄美群島は、稲作などが禁じられてサトウキビ栽培を強制され、黒糖の上納と引換えで米が支給される「黒糖地獄」と呼ばれる時代を経験します。島民が黒糖を口にすることは許されず、僅かに黙認された甘薯やソテツ粥で飢えを凌ぎ米を運ぶ薩摩船を待つ様子はシマ唄「豊年節」にも唄われています。この時代に農業社会が廃れてしまいます。

 沖永良部は遠いことが幸いし、かなり遅い時代まで自活農業が許され、耕作に適した地形も相まって今日に繋がったようです。今も島の面積の約50%が農耕地で、陽当たりの良い丘に花卉や野菜の畑が広がる風景は、山森に覆われた奄美大島と全く異なります。(ちなみに大島の農耕地面積は僅か3%、喜界島,徳之島が30〜40%「R5奄美農林水産業の動向」より

 

 西原浜(和泊町  2015年5月

 海の様子も違います。琉球石灰岩のゴツゴツした浜が多く、同じ奄美ブルーでもアオサの黄緑など明るい色が目立ちます。一方で海食崖の深い海は一面コバルトブルーでウミガメの宝庫。複雑な入江も背後に迫る山も無く、小鳥の囀りを聴きながら眺めるカラリとした海です。

 フーチャ(和泊町  2015年5月

 風光明媚ですが、農業で潤っているためか観光業は控え目。全体に長閑で、不思議なことにハブもいません。人も朗らかでおっとりしている気がします。散歩の犬まで「おれエラプに生まれて良かったなー」みたいな顔して歩いてます。

 大きく複雑で変化に富む奄美大島に比べ、サイズも中位で刺激が少なく平和過ぎ・・とも言えるのですが、濃厚な大島とは別の「もう一つの奄美」です。遠くて中々行けないのですが、それだけに堪らなく懐かしくなる事があります。

 

(沖永良部と大島の間が徳之島。ここも超個性的な「もう一つの奄美」です。いずれ紹介したいと思います)

 満月の花富峠2018年9月)

 佐知克の浜に月光のステージが現れていた。演目は分からない。

 (左に小さく佐知克の灯が写ってます)


 神は空間を満たしているが、透きとおって静かに満ちていて、その形や言葉を捉えることはできない。神は世界の成り立ちそのものであるから自らを神と名乗れない。ただ、静かで壮大な光景の中、五感に入る情報が単純化して自分の存在が希薄になる時、自分との境界が曖昧となった空間に満ちる「何か」と繋がることはできる。

 奄美の地の闇と月明りはそういった舞台装置として適している。


 量子力学の表現を借りるなら「観察対象」である静かで壮大な光景と、それを眺めている「観察者」の自分とが、このとき一瞬混然とした。元の観察者に戻り、時空の中で「ここにいる」という事の不思議さを想い、その不思議さに根源的な「何か」を想う。今ここにいる事の不確かさと確かさ。表裏の瞬間と永遠。刹那生滅。とりあえずは今、夜の花富峠にいる幸福。

 

 花富峠(けどみとうげ)は花富と西阿室の間にある林道の峠。細く険しい道で落石も多く利用者も稀。岬を高い位置で廻り込むが、西阿室側にタカテルポイントと呼ばれる眺めの良い場所がある以外は樹木に遮られて眺望は無い。

  大雨の後の崩土(花富側の峠口付近 2011年12月)

  普段でも、往きには無かった大きな石が帰りの道の真ん中に転がっているような事は結構ある。

      


 車でも夜に通るのは恐い峠で、この日もハンドルにしがみつきヘッドライトが照らす路面を凝視して恐る恐る進んでいると、途中に伐採された箇所があり対岸の佐知克の灯が見えました。慌てて車を停め30分ほど撮影した内の一枚が冒頭の写真です。

 林道とはいえ舗装もされた路上ですが、風も強く木々がざわめき、これまでで一番怖い撮影でした。冒頭の高尚な文章も、チラっとそんな考えが頭をよぎっただけで、現場では「畏れ」より「恐れ」が勝って気もそぞろ。夜の山中の撮影では、周囲に掌を合わせ頭を下げて無粋の許しを請うのが常ですが、この時は大急ぎで祈り、撮影後は逃げるように西阿室へ下りました。

 

 昼の花富峠眺望2009年9月

 右に西阿室の立神と集落 , 左遠景の小島は須子茂離(すこもばなれ)