いくらなんでも暗過ぎですが、個人的に好きな一枚。焼内湾の入江で名柄(ながら)集落の夜景撮影時についでに撮ったものです。

 

 名柄の漁灯(2024年2月)これでも明るく補正

 

 名柄は宇検村の西方の集落ですが、瀬戸内町久慈へ抜ける峠道の分岐点で、この辺りではやや戸数が多く小中学校も置かれています。夜景も少しばかり賑やかです。

 名柄集落暮景(2024年2月)

 山懐に抱かれた焼内湾の更に深い入江の奥に位置し、落ち着きある佇まいという点では宇検村で一番かも知れません。入江の口あたりからの集落の眺めには何かホッとするものがあります。

 

 ただこれは昼の話し。さざ波すら立たない入江の奥は日没とともに急激に暗くなり静まりかえります。このときは夜20時。カメラの先には名柄の灯があるものの、自分の周囲は真っ暗な山裾。県道脇でしたが、たまに遅い家路を辿る車がある程度の寂しい場所です。

 宇検村はケンムン話(木に棲む妖怪。沖縄だとキジムナー)の多い土地。また、名柄の背後に見える山は奄美では誰もが知っている「かんつめ節」の悲話の舞台・・。なかなかゾクゾクする状況でした。

 

 1時間近く経った頃、初めて名柄側から車がやって来て後ろを通り過ぎたのですが、少し先の木立の陰で停まった気配がして、暫くすると小さな灯がフラフラ浜に降りてきました。どうやら「イザリ」です。(夜間にヤス等でタコや魚を狙う個人漁) 真っ暗闇で姿は見えませんが灯は少しづつ移動していき、時々「チャブッ!」と水音も聞こえます。(この時撮ったのが冒頭の写真)

 奄美の人はイザリが好きで、潮に合わせ夜の海に出ます。昔お世話になった古仁屋のおばちゃんも真夜中に平気で幾つも岬を越えた海に出かけ、朝になると洗面器に入れた大きなイカやタコを自慢げに見せてくれました。

 そんな島人が近くで獲物を漁っているのは頼もしい限り。勇気百倍で撮影を続け、最後はまだまだ動き回る灯を後に宿へ帰ったのでした。

 

 昼下がりの名柄(2004年6月)

 

「かんつめ節」

 名柄の娘・かんつめ(かんてぃみ . 実在が判明している)と山を隔てた久慈の若者・岩加那(岩太郎の尊称)の悲恋を悼むシマ唄。

 かんつめはヤンチュ(身売りされた使用人)。主家に公用で訪れた岩加那と恋に落ちるが、逢瀬を主人に咎められ激しい折檻を受け、世を儚んで待合せ場所の峠で自害してしまう。岩加那はこれを知らぬまま峠の小屋に行き二人で夜通し唄遊びをするが、かんつめは最後にこう唄う

 「あかす世や暮れて汝(な)きゃ夜や明ける 果報節(かふせつ)のあらばまた見逢(みきょ)そ」

 (私のいるあの世は暮れ、あなたの世は明ける 良き時節が有ればまたお逢いしましょう)

 名柄〜久慈の峠には碑が建立されている。

 

 地元では日没後のかんつめ節は亡霊を呼ぶとされ、今でも夜更けの演奏を控える。

 古仁屋の友人で唄者でもあるH姉は、コンクールでかんつめ節を唄うにあたり三味線奏者と峠に御参りに行ったが奏者は怖がって車の中から拝み「私はちゃんと御参りしたよー」と話していた。

 

 初心に帰って夜の奄美です。あえてシンプルな一枚。

 

 網野子集落(2025年1月)

 

 奄美の夜景を撮り始めたきっかけが古仁屋から眺めた加計呂麻島の集落の灯だった事は前にも書きましたが、濃い夜闇に包まれた集落の灯を眺めるのがとにかく好きです。

 

 闇の効果については私が語る必要は無く、100年前に梶井基次郎が著した「闇の絵巻」があります。梶井は闇の中で安息と畏怖の間に揺れる感覚をこう記しています。「私は其処で闇を愛することを覚えた。昼は金毛の兎が遊んでいるように見える谿向こうの枯萱山が、夜になると黒々とした畏怖に変わった」 また、夜の峠に自分がいることも知らず、黒く佇む山々が「おい。いつまで俺達はこんなことをしていなきゃならないんだ」と話し出したと書いています。

 

 少しだけ補足を許して貰うなら、闇による情報の遮断がキーです。山は夜空との輪郭だけの存在になり、それ以外の情報を人の目に与えてくれなくなります。残るのは押し黙った黒い膨大な山容のみ。同様に谷や海、木々までも人との接点を消した存在に化します。風景はもはや愛でるものではなく、原初の息づきを持ち人を圧倒する畏れの対象です。

 そんな中に小さく灯る集落の灯り=人の営みの証は慎ましくも心強く・・・まぁ理屈はともかく、闇の中で独りポツンと写真を撮っている時の、半分は肝試し的なゾクゾク、半分はピュアな奄美を独り占めみたいな陶酔がクセになっています。

 

(冒頭の写真と同じ場所の昼の風景)

 ちなみに左端の山腹をその後ろ遠景の山まで延々登っているのが国道58号旧道の難所・網野子峠。2015年に集落背後からトンネルで抜ける新道が開通している。

 

 朝日が溢れ落ちる今井崎 (2004年10月)

 船上から . 左に安木屋場の立神 , 遠景は笠利崎 

 引き続き北部で、今回は海上からです。

 奄美へのアクセスは飛行機の他、鹿児島からのフェリーが2航路あります。片道25時間かけ沖縄まで行く大型船と「奄美航路」と呼ぶ沖永良部まで(徳之島~沖永良部は休航中)の中型船です。

 下りは鹿児島を夕方出航。沖縄航路は真っ直ぐ名瀬へ向かい夜明けに入港しますが、奄美航路は喜界島経由で名瀬は朝7時。長く寝られる後者を選ぶ事が多いのですが・・「本船まもなく喜界島・湾港(わんこう)に入港します」(港の地名が「湾」) のアナウンスが流れると嬉しくなり甲板に出てしまいます。

 喜界入港は朝4時台。大抵真っ暗ですが、まずは「奄美に来たー」と深呼吸。喜界まで来ると冬でも亜熱帯の柔らかい海風に変わっています。

 

 夜明の笠利沖を名瀬へ (2004年10月)

 光は笠利崎灯台

 次の名瀬までは奄美大島北端の笠利崎,今井崎を大きく廻り2時間。もう一眠り・・と思いつつ、いつも船室と甲板を行ったり来たりになります。

 船からは奄美大島の大きさが実感されます。接近してからも行けども行けども黒々とした島影が延々続きます。船の速度はもどかしいほどですが、それが船旅の醍醐味かつ効能。ゆったり雄大な時間と景色の流れと次第に同期し、気のせいか呼吸まで落ち着き、旅の興奮とは別に奥底の心が鎮まった頃、立神に見守られつつ名瀬に入港します。

 

 名瀬入港 (2023年2月) 2月だと7時でも薄暗い

 空をひとっ飛びが多いのですが、やはり海路はるばる渡る方が「正しい奄美の行き方」のような気はします。

 

「今井崎」:奄美大島の北部の岬。

 奄美には平家落人伝説が多い。壇ノ浦に没したはずの平資盛,行盛等は奄美へ逃れて居を構えたという。この岬に北方の源氏を警戒する遠見番を置き、今井権太夫を配したのが名の由来とされる。岬上には今井大権現 ( シマグチで「ぐんぎん」) が祀られている。

 これより古く、地元では岬を神々が集う山(御嶽)として神聖視してきており、権現社の祭礼もネリヤ(竜宮)からの神の招聘など奄美のノロ神事の色が濃い。儀式には広く南西諸島に伝わるヲナリ神信仰の伝説も加わる。

 今井崎には奄美古来の信仰と大和,琉球由来の伝承が重なり合う。日本の結び目としての奄美を感じる場所でもある。

 ヲ(ウ)ナリ=姉,妹(広くは女性)には兄,弟(広くは一族)を守護する霊力が備わるとされる。姉妹神が白鳥(しろとり)の姿を借り荒天の海で船を導く伝説はシマ唄「よいすら節 (舟ぬ高艫節)」にも詠われている。

 赤木名の立神(2024年10月)

 奄美で一番愛着のある土地は2ケ月近く住みついていた古仁屋なので、どうしても南部の話題が多くなるのですが今回は北部です。

 

 奄美大島は南北でかなり雰囲気が異なり、深い森と山に閉ざされた南部に対し、北部はなだらかで開放的です。人口も北部に偏り、何より空港が北端にあるので人の往来が多く観光施設も集中していています。ごく大雑把に、南部はディープ、北部はポピュラーです。

 南部に滞在することが多いのですが最後は北部の名瀬あたりで1泊して帰るのが常です。空港が近いのも理由ですが、ディープな南部からいきなり帰ると何だかマブイ(魂)がついて来ず調子が狂うので、風通しのいい北部で少しクールダウンする感じです。

 翌朝はおとなしく空港へ向かう・・はずが、よく立ち寄るのが赤木名の立神です。

 

 奄美大島北部 (2017年11月)

  加世間峠から 左:東シナ海(笠利湾),右:太平洋

 名瀬から空港へは途中で右折するポイントがあるのですが、ここを直進しても少しの遠回りで行けます。「まだ時間がある」という時の未練がましい寄り道です。

 

 直進すると交通量も減り、笠利湾に沿って静かな集落を次々に抜け、終わりを迎えた奄美滞在が少しだけ巻き戻ります。すぐに北部の拠点・赤木名の町に入り寄り道も終了なのですが、ここに鎮座するのが赤木名の立神(ネガン立神)です。

 

 端正な三角形の立神で、No.1で紹介した名瀬の立神と似ていますが、少し反った姿と前後左右どこから見ても三角である点が異なります。(名瀬の立神は横から見ると特徴無い岩礁なのが御愛嬌)

 姿といい立ち位置といい、ネリヤカナヤの来訪神の足掛かりに相応しい孤高の立神です。田中一村の代表作「クワズイモとソテツ」で密生する植物の間に小さく描かれているのも赤木名の立神と言われています。

 

 対岸の今井崎から(2006年3月)

 由緒正しく雄大な立神の眺めですが、個人的には奄美との暫しの別れの道標でもあり、条件反射的に寂しさを感じる風景になっています。まぁ、赤木名のラーメン屋に行ったついでに眺めたりもするんですけど・・。

 

 「赤木名(あかきな)」 :  笠利湾に面した中金久,外金久,里の一帯を指す地名。合併して奄美市となった旧笠利町の中心地で、規模はさほど大きくないが郵便局,信金,学校(高校を含む)やスーパー,飲食店、更に製糖工場などもあり戸数も多い。空港に近いが周辺観光地や名瀬へのルートからは外れており町並みに落ち着きがある。実は江戸時代に名瀬より先に薩摩藩の代官所が置かれ、当時の奄美大島の政治経済の中心だった土地。(シマグチでは「はっきな」らしいが実際に聞くと「あっきな」に聞こえる)

 

 

 

 

 

 国頭の海岸(和泊町  2006年5月

 そろそろ明るい写真を・・ということで沖永良部です。

 No.9でも触れたように「奄美」は奄美大島を指す場合と奄美群島全体を指す場合があります。地理では後者が正ですが、200Km連なる島々は個性が強く一括りにできません。南に行くほど沖縄の影響も強く、最南端の与論島になると沖縄は眼前。観光客も沖縄の離島感覚で訪れ、迎える側もそのままウェルカムという感じです。(でも島酒は泡盛ではなく奄美の黒糖焼酎「有泉」だったりする)

 与論の一つ北が沖永良部島です。(地元ではオキノを省いて「エラブ」と呼ぶ) ここが奄美と沖縄が半々くらいの処ですが、混在というより双方の色が程よく薄れ、その上に独自の沖永良部色が現れている感じです。

 

 私の沖永良部の印象は「明るく静かな幸せ島」 峻険な奄美大島と違い、なだらかな隆起珊瑚礁の島です。農業が盛んで、ジャガイモやインゲン、鑑賞用のユリの花などを島外に出荷しており、収穫期には積込作業でフェリーの出港が遅れるのが風物詩です。

 奄美大島の方はパッションやタンカンなどが有名ですが、サトウキビ以外の農業はあまり目立ちません。これには地形の他に歴史的な理由もあります。薩摩藩の支配下にあった奄美群島は、稲作などが禁じられてサトウキビ栽培を強制され、黒糖の上納と引換えで米が支給される「黒糖地獄」と呼ばれる時代を経験します。島民が黒糖を口にすることは許されず、僅かに黙認された甘薯やソテツ粥で飢えを凌ぎ米を運ぶ薩摩船を待つ様子はシマ唄「豊年節」にも唄われています。この時代に農業社会が廃れてしまいます。

 沖永良部は遠いことが幸いし、かなり遅い時代まで自活農業が許され、耕作に適した地形も相まって今日に繋がったようです。今も島の面積の約50%が農耕地で、陽当たりの良い丘に花卉や野菜の畑が広がる風景は、山森に覆われた奄美大島と全く異なります。(ちなみに大島の農耕地面積は僅か3%、喜界島,徳之島が30〜40%「R5奄美農林水産業の動向」より

 

 西原浜(和泊町  2015年5月

 海の様子も違います。琉球石灰岩のゴツゴツした浜が多く、同じ奄美ブルーでもアオサの黄緑など明るい色が目立ちます。一方で海食崖の深い海は一面コバルトブルーでウミガメの宝庫。複雑な入江も背後に迫る山も無く、小鳥の囀りを聴きながら眺めるカラリとした海です。

 フーチャ(和泊町  2015年5月

 風光明媚ですが、農業で潤っているためか観光業は控え目。全体に長閑で、不思議なことにハブもいません。人も朗らかでおっとりしている気がします。散歩の犬まで「おれエラプに生まれて良かったなー」みたいな顔して歩いてます。

 大きく複雑で変化に富む奄美大島に比べ、サイズも中位で刺激が少なく平和過ぎ・・とも言えるのですが、濃厚な大島とは別の「もう一つの奄美」です。遠くて中々行けないのですが、それだけに堪らなく懐かしくなる事があります。

 

(沖永良部と大島の間が徳之島。ここも超個性的な「もう一つの奄美」です。いずれ紹介したいと思います)

 満月の花富峠2018年9月)

 佐知克の浜に月光のステージが現れていた。演目は分からない。

 (左に小さく佐知克の灯が写ってます)

 神は空間を満たしているが、透きとおって静かに満ちていて、その形や言葉を捉えることはできない。神は世界の成り立ちそのものであるから自らを神と名乗れない。ただ、静かで壮大な光景の中、五感に入る情報が単純化して自分の存在が希薄になる時、自分との境界が曖昧となった空間に満ちる「何か」と繋がることはできる。

 奄美の地の闇と月明りはそういった舞台装置として適している。

 量子力学の表現を借りるなら「観察対象」である静かで壮大な光景と、それを眺めている「観察者」の自分とが、このとき一瞬混然とした。元の観察者に戻り、時空の中で「ここにいる」という事の不思議さを想い、その不思議さに根源的な「何か」を想う。今ここにいる事の不確かさと確かさ。表裏の瞬間と永遠。刹那生滅。とりあえずは今、夜の花富峠にいる幸福。

 

 「花富峠(けどみとうげ)」

 花富と西阿室の間にある林道の峠。細く険しい道で落石も多く利用者も稀。岬を高い位置で廻り込むが、西阿室側にタカテルポイントと呼ばれる眺めの良い場所がある以外は樹木に遮られて眺望は無い。

  大雨の後の崩土(花富側の峠口付近 2011年12月)

  普段でも、往きには無かった大きな石が帰りの道の真ん中に転がっているような事は結構ある。

      

 車でも夜に通るのは恐い峠で、この日もハンドルにしがみつきヘッドライトが照らす路面を凝視して恐る恐る進んでいると、途中に伐採された箇所があり対岸の佐知克の灯が見えました。慌てて車を停め30分ほど撮影した内の一枚が冒頭の写真です。

 林道とはいえ舗装もされた路上ですが、風も強く木々がざわめき、これまでで一番怖い撮影でした。冒頭の高尚な文章も、チラっとそんな考えが頭をよぎっただけで、現場では「畏れ」より「恐れ」が勝って気もそぞろ。夜の山中の撮影では、周囲に掌を合わせ頭を下げて無粋の許しを請うのが常ですが、この時は大急ぎで祈り、撮影後は逃げるように西阿室へ下りました。

 

 昼の花富峠眺望2009年9月

 右に西阿室の立神と集落 , 左遠景の小島は須子茂離(すこもばなれ)

 

 

 

 

 

大島海峡 久慈~花天(けてん)付近(2025年7月)

 左に突き出ているのがオーネン岬 (又はオネン崎) 

 ※拡大すると星だらけ

  「奄美民俗雑話」で印象に残る話しの一つに「オーネン岬の竜宮」があります。真珠採集業者が大島海峡の海底で竜宮城を見たという唐突感のある話しです。著者は「それが幻想であるにせよ、そのような世間話を生み出す背景には、人々の意識の奥深く、古くからの伝承の片鱗があったものと思われる」と事を落ち着かせつつ、再び唐突に「そこは数匹の黒豚が海上を走り回るという、海神の零落した姿を連想させる話しが伝えられているところである」と畳みかけてきます。

 あの狭い海峡に竜宮?に始まった項は奇妙な余韻を残したまま終わります。「雑話」とはいえ取り留め無さ過ぎなのですが・・。この話が私にとって印象的なのは、内容もさることながら、その舞台が以前から妙に気になる場所だからです。

 

 竜宮目撃の場所は「久慈湾の西の入口のオーネン岬の辺り」とされています。久慈は大島海峡の西方にある集落です。海峡沿いは全て瀬戸内町で、町役場もある東方の古仁屋から西へ行くほど静かな佇まいになっていきます。特に久慈で宇検村へ抜ける峠道を分岐した後は集落の間隔も広がり、終点の西古見まで海沿いの山裾をしんとした静かな道が続きます。同時に海峡の西の口に近づき外洋のダイナミックな風景が広がっていきます。常宿である名瀬のT旅館の主人に「あそこを走っていると寂しいような清々しいような変な気分になる」と話し、強く同意された記憶があります。

 三連立神が見えてくると終点の西古見も近い

(2002年10月)※現在は二車線に拡幅

 気になる場所は、久慈と花天(けてん)の間で道路がいったん海面近くまで下って小さな石の浜を廻り込む処です。何も無いこぢんまりとした場所ですが、いつ通っても周囲より妙に明るく感じます。おそらく背後の山の斜面がそこだけ緩く海へ開けているからで、小さな浜も誰かを迎えようとしているかの様に明るく佇んでいます。人家の2〜3軒あっても良さそうな雰囲気なのですが、集落を形成するには入江の規模が小さく無人のままになっている様に見えます。(撮影 2007年10月)

 大抵あっという間に通り過ぎてしまいますが、違和感の様なものに惹かれ、何度か車を停めて写真を撮っています。この付近が正に竜宮目撃譚の「久慈湾の西の入口のオーネン岬の辺り」です。(冒頭の夜景だと左の茂みの先)

 

 話しはこれだけで特にオチも結論もありません。実は「気になる場所」も最近はあまり気にならなくなっています。植生が変わり雰囲気が変わった気もしますが、結局のところ慣れてしまったのかも知れません。それでも通るたびに「ここだ・・」と感慨が湧き、同時に竜宮や海上を駆け回る黒豚を想う特異な場所ではあり続けています。

 

 追記 : 昭和50年頃までオーネン岬の西側に久慈大浜という集落があった事を最近知りました。伝承の発地はここなのかも知れません。

「奄美民俗雑話」登山 修 (とやま おさむ) 著

 初めて奄美を訪れたのは約25年前。趣味が旅行で仕事も地方出張が多く日本中ほぼ行き尽くし、休暇の旅行先が思い付かなくなり「そういや沖縄とか行ってないな」と地図を眺めて何となく奄美群島の喜界島を目的地に決め、那覇経由で奄美空港に降りたのが最初でした。到着1時間後には今日に至る奄美ファンになっています。(この時の事は改めて書いてみたいと思います)

 

 初めは奄美に関する何の知識も無く「何だか分からんけど涙が出そうなほど好き」という状態。そこから歴史や文化を知り更に惹きつけられていくのですが、その最初の手引きとなったのが「奄美民俗雑話 (登山修・春苑堂出版)」でした。確か名瀬の書店で購入したと記憶してます。

 「奄美民俗雑話」は、奄美の神話や伝説から始まり民俗語彙としての風物,習慣などが短文で紹介されています。著者の登山修先生は地元・瀬戸内町のご出身で、英語教師として従事する傍ら郷土史の発掘・研究に努めてこられた方です。

 この本は不思議な魅力を持っています。同著の「奄美民俗の研究」が学術的なのに対し、こちらは「雑話」と題するとおり散文的な読み物で、奄美の伝承や習俗を次々と平易に伝えてくれます。平易でありながらその内容は匂い立つほどに濃厚かつ詳細です。

 特徴的なのが物事の因果関係があまり説明されず、聞いたまま見たままスケッチの様に記されている点です。時に取り留めも無くふわりとした文章なのですが、余分な修飾や整理が無い分、逆に内容に凄みが出て、いま自分がその土地で話しを聞いているような生々しさがあります。

 これと似た感じを受けるのは柳田國男の怪異譚「遠野物語」です。「奄美民俗雑話」は概ね平穏な内容で、かの有名な「これを語りて平地人を戦慄せしめよ」といった挑戦的な序文も有りませんが、民俗学という、古から続く人の営みのありのままに価値を見い出す世界への姿勢(情念?)が共通しているためと思います。

 「奄美民俗雑話」の序には、奄美の地に文化的不毛を感じていた先生が調査を進める内に「私の奄美というシマに対する世界観は、宇宙的な広がりを見せ(中略)眩しいばかりの宝石のような事象の連続した発見になり、私の身と心は天上に舞い上がるような気分に浸っていた」と、淡々とした本文とは打って変わり自身の興奮が記されています。その波動を知識ゼロの状態で受ける事ができたのは幸運でした。

 嘉徳~青久付近(2002年11月)

 ススキ(アダハ)は奄美の神事によく使われる。背景に稲霊加那志(イナダマガナシ)の信仰がある。 ・・・ こんな知識も先生の著作から得ています。


 先生,先生と呼んでいますが、実はお会いしたことはありません。好きな本の著者というだけだったのですが、ブログで奄美の伝承なども紹介し始めると知識のベースに「奄美民俗雑話」がある事が強く意識され、参考文献を超えて奄美と自分を結び付けた本であることに改めて気づき、自然かつ勝手に先生と呼び始めたものです。


 そうなると今更ながらお会いしたいという思いが募り、先日の奄美行きの際に思い切って著者略歴に記載の住所を訪ねてみました。

 一応は和菓子など携えて行ったものの、略歴では昭和9年生まれ。長寿の地とはいえご存命かどうか。更に25年前の初版記載の住所・・。実は人付き合いが苦手なので、訪ね当たらず自己満足に終わることも密かに期待したのですが・・訪ねた先の表札にはしっかり「登山」の文字がありました。何か物音もします。嬉しさとともに観念もしてチャイムを押しました。

 応対して下さったのは先生の奥様で、オタオタしながら訪問理由を申し上げると、快く招き入れて下さいました。同時に先生は10年前に亡くなっていると知りました。

 望外な事に通されたのは先生の資料を収蔵した部屋でした。ご存命の頃は民俗学の研究生などが訪ねて来て談義などもあったそうです。私は実に10年以上の大遅刻をして来た生徒だったわけです。

 ぐるりの書棚には奄美あるいは歴史,民俗に関する書籍,資料が並び私を取り囲んでいました。リバーサルフィルムも見えます。感激の一言あるのみ・・。残念ながら私は民俗学どころか工学部出身の現場屋で、それ以上の目的を持ち得ません。ただただ「奄美民俗雑話」が好きな事、感激を繰り返し、勧められるまま手作りのジュースまで頂いて、来た時同様バタバタと失礼したのでした。

 今になって「もう少しお話しすれば良かった」「もう少し写真を撮らせて貰えば良かった」など後悔してるのですが、まずは大遅刻で先生にはお会いできなかったものの、それに代わる御縁で思いを伝えられ有難く思っています。「有難い」という言葉はこういう時の為にあるかと思います。突然の訪問にも関わらず温かく迎えて頂き、この場でもう一度・・本当に有難うございました。

 

 

 

 

 伊子茂湾 遠景の灯は勢里(せり)

(加計呂麻島・伊子茂 2019年9月

 雲と月の共演に心惹かれると先に書きましたが、もちろん輝く満月も素敵です。

 加計呂麻島の南西を大きく型どる伊子茂湾の奥、伊子茂集落から遠景右の外海の方角に誰か渡って来そうな月映の道が通じています。実際ここは「中渡し」の経路です。

 

 「中渡し」:伊子茂(いこも)は加計呂麻島の玄関口・瀬相から山一つ越えた外海側の集落で、規模は大きくないものの学校もあり港も整備されている。

 すぐ南に位置する請島,与路島と本島・古仁屋を結ぶ町営の定期船は一日一往復程度のうえ、間に横たわる加計呂麻島を大きく迂回して東の外洋を廻るため欠航も珍しくない。代替手段として小型船(チャーター)で湾を遡り、伊子茂でいったん加計呂麻島へ上陸、伊子茂~瀬相をバス等で移動してフェリーなどに乗り継ぎ古仁屋へ(帰りはその逆)というルートが取られることがあり「中渡し」と呼ばれている。

 

伊子茂の浜(2025年7月宿が隠れています

 伊子茂の地名は文献によるとイ(強調語)・キョ(清らかな)・モ(茂み)が訛ったものとされています。加計呂麻には須子茂(スコモ)もあり真偽のほどは分かりませんが、確かに集落の外れの小さな浜にはアダンやイジュの綺麗な茂みがあり、その茂みに隠れるように私の加計呂麻での常宿の一つがあります。実は妻のお気に入りで二人の時は大抵ここに泊まります。

 

 冒頭の写真の撮影日は旧暦8月15日。隣の花富集落で豊年祭があり、宿の皆も行くと聞いていたので撮影後に大急ぎで向かいました。残念ながら踊りは終わっていて、とりあえず月夜の浜で余韻だけ味わいました。

 豊年祭後の一刻(花富 2019年9月

 加計呂麻島・佐知克より伊子茂湾を望む

(中央遠景は請島 2024年2月)

 奄美は沖縄とよく比べられます。同じ琉球弧に属し温暖,ゆったりなど似ているところもありますが、何度も通い短期間でも住んでみると違いが多い事が分かります。(行政区分も鹿児島)

 奄美はどこか翳りがあり複雑です。琉球と大和(本土)の結び目に位置し、双方に翻弄された複雑な歴史と、深い山と森,入り組んだ海岸線を持つ複雑な地形がその風土を作っている気がします。

 象徴的なのが民謡で、同じく三線を使いますが、沖縄は太弦で伸びやかな琉球音階にのせ、恋唄や花鳥風月を愛でる唄が多いのに対し、奄美は細弦を使い本土調の音階で独特の哀調を帯び、叶わぬ思いや同じ自然でも雲や雨を扱った唄が目立ちます。

 南の島の明るさと哀調や複雑さは相反するイメージですが、それが一体となって息づいているのも奄美の魅力の一端である気がします。

 曇りや雨の日、沈んだ色の風景の中に綺麗な奄美ブルーが同居していることがあります。地元では当たり前の眺めなのでしょうが、外から来た人間にはそれが南の島の明るさと翳りが重なり合う奄美の象徴の光景にも見えます。

 

 「雨ぐるみ」の管鈍 (地名:くだどん)

(2002年11月)

 

 「雨ぐるみ」(あまぐるみ)

 西ぬ管鈍なんど  雨ぐるみぬ下がてぃ

 雨ぐるみやあらぬ  吾(わん)加那志ぬ目涙(めなだ)どぅ

 ーー(訳)西方の管鈍集落に  雨雲がかかってきた

 ーーーーーいや雨雲ではない  私の愛しい人の涙だろう

 

 「奄美」: 狭義には奄美大島(近接する加計呂麻島,請島,与路島を含む)を指すが、広くは薩南諸島の南端で200Kmにわたって沖縄へ連なる奄美群島(北から奄美大島,喜界島,徳之島,沖永良部島,与論島)を指す。

 実は一括りに奄美と言っても個性が強く、南に行くほど沖縄色も濃い。ここも民謡に例をとると、三線の弦は沖永良部から沖縄と同じ太弦となり琉球調の伸びやかな唄が目立ち始めるが、奏法に奄美の細かい旋律が残る。奄美民謡の中でも「与論島や那覇ぬ内」などと唄われる。(大島以外の奄美もいずれ紹介したいと思います)