今年は、暖かくなるのが、早く

五月の花が、どんどん咲いていますね。

写真は、先日みかけた、木香ばらとジャスミンです。

 

新約聖書は、キリスト教徒ではない、私には、遠い存在で、

相当昔に、読んだ記憶がある程度ですが、

先日テレビ番組で見て、中々面白かったのでご紹介します。

 

紀元1世紀から2世紀にかけて執筆・編纂された聖典「新約聖書」。

今も、キリスト教徒だけでなく、世界中の人々に巨大な影響力を持ち続ける名著です。

「新約聖書」に収められた27の書の中でも、

イエス・キリストの生涯と言葉が克明に記されているのが「福音書」です。

マタイ伝、マルコ伝、ルカ伝、ヨハネ伝の4つからなる「福音書」は、

いわば「新約聖書」の中核ともいえる存在。

それぞれが補いあうようにイエスという存在を浮かび上がらせる構成になっています。

 

釈迦や孔子もそうなのですが、イエスも自分では、書物を残していません。

弟子たちが、「イエスは、こう言った」という風に、書かれています。

ですから、自身は、どう思ったかは、想像でしかありません。

 

 

人間イエスは、ベツレヘムの馬小屋で生まれ、

ナザレの大工の息子だと言われます。

 

当時のユダヤは、ローマ帝国に支配され

宗教は、ユダヤ教が強かったようで、

 

そんな支配者に対する、アンチテーゼとして、

現れた、新興宗教であったように思います。

 

イエスは貧しい人々、身分低き人々、

世間からないがしろにされている人々に寄り添う事を重んじ、

 

有名な「山上の説教」では、「悲しむ人たちは幸いである」と説き、

誰が偉いかを競い合う弟子たちに、

「幼子の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れる者である」と窘める。

イエスの生涯は一貫して「悲しむ人」「小さき人」「蔑まれた人」たちを救う立場を取りました。

 

こんな所は、「悪人であっても、救われるべきだ」という、

浄土宗などにも、共通しているように思います。

 

宗教でよくある、奇跡、

これは、私は、受け入れかねません。

 

イエスが、五つのパンと二匹の魚で五千人もの男を満腹にさせる奇跡を起こした奇跡。

 

これを、解説者の若松英輔さんは、

イエスが、食べ物をみなに、食べさせたのではなく、

心を満たす、言葉を与えたのでは、と解きます。

それは、「永遠の命に至らせる食べ物」「あなた方の知らない食べ物」なのだそうです。

 

私たち人間は、欲を持ち、

誰でもが、罪人だという立場、

 

姦通の罪で捕らえられた女性を糾弾する周囲の人たちに対しては、

「罪のない人間だけが石を投げなさい」と告げ、たしなめた。

なるほど、考えたら、石を投げられる人は、いませんよね。

 

愛について、律法学者に、イエスの語ったエピソード(善きサマリア人)

 

旅人が、強盗に襲われて身ぐるみはがれ、半死半生となって道端に倒れていた。そこに三人の人が通りかかる。

 

最初に司祭が通りかかるが、その人を見ると道の向こう側を通り過ぎて行った。(権威のある人)

 

次にレビ人が通りかかるが、彼も道の向こう側を通り過ぎて行った。(裕福な人)

 

しかし三番目に通りかかったあるサマリア人は、(差別され貶められている人)

そばに来ると、この半死半生の人を助けた。

傷口の治療をして、ろばに乗せて宿屋まで運び介抱した。

そして翌日になると宿屋の主人に怪我人の世話を頼んでその費用を払った。

 

このたとえ話の後、律法学者に対してイエスは、

このたとえ話で誰が怪我人の隣人となったかを律法学者に問い、

律法学者が「助けた人(サマリア人)です」と答えると、

「行って、あなたも同じようにしなさい」とイエスは言った。

 

「ああ、」と思った時に、生じる良心の発動、それが大切という事

 

隣人の愛、無償の愛を説いた話ですね。

 

 

祈りについては、

私たちは、神様に、つい現世利益、ご利益を願ってしまいますよね。

 

イエスに、言わせると、

そんなことは、神様は、お見通しなのだそうで

 

正直な神と我の対話、

それによる、自己の見つめ直し、

 

それが、祈り、

懺悔などは、そんな事なのでしょうかね。

 

これは、一神教に、共通しているように思います。

 

私たち人間には、病気や災害など、

どんなに頑張っても、敵わない事がありますね。

 

運を天に任せる、

そんな時、人は、祈るしかありませんね。

 

赦しについては、

いよいよ受難、と言う時、

オリーブ山に向かう一同。

イエスは弟子たちに全員が自分を見捨てるだろうと告げる。

 

「決して見捨てない」というペトロに対しイエスは

「鶏が鳴く前に三度私を知らないというだろう」と語る。

 

自分を裏切るユダに対しても

「しようとしていることに取りかかりなさい」

と告げイエスは衛兵たちに捕らえられる。

 

十二使徒は、偉い人というイメージがありますが、

実は、みな弱く、イエスを助ける者はいません。

 

イエスはこんなにも弱き弟子たちを愛しゆるしていた。

 

そして、自らも、磔刑に処せられるとき、

「わたしの神、どうしてわたしをお見捨てになるのですか」

と嘆く姿を見せます。

 

私たちは、弱く、罪人であることを自覚し、

そんな、私たちを神は、知っていますよ。

という事でしょうかね。

 

最初から、苦難に対し、神様が救ってくれる、奇跡が起きる

というのは、どうでしょうかね。

 

イエスも、神は、助けてくれず、磔刑に処せられるますしね。

 

神にすがるのではなく、

私たちは、懸命に生き、

 

その上で、最後を、運を天に任す、(神に委ねる)

というスタンスが、大切ではと思います。

 

 

 

齊藤鍼灸院は、身体や心の悩みに、お答えしています。

 

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