シバの王~奥州街道を歩く(第三幕 10)
ソロモン王とシバの女王(ソロモン(Wikipedia)より)
『源氏の神話化の原点としての前九年の役
「前九年の役」における頼義・義家の戦勝は、河内源氏が武門の家の中でも最高の格式を持つ家である根拠として、中世以降、繰り返し参照されるようになった。
実際、頼義・義家の家系からは後に源頼朝が出て鎌倉幕府を開いただけでなく、室町幕府を開いた足利尊氏も河内源氏であった。
彼らが武門の棟梁の象徴として征夷大将軍を名乗った背景には、頼義が蝦夷を征討した形となったこの戦役がある。
源頼朝は源義経及び奥州藤原氏の征討に際し、自身が「前九年の役」を意識し、平泉滅亡後もさらに北上して、父祖戦勝の地「厨川(厨川柵)」へ赴き、源義家が同地で行なった鉄釘の故事を再現したと記されている。(陸奥話記)
また、足利氏も後世、前九年の役の聖地とも言える「斯波郡」を領有して「斯波氏」を名乗り、室町幕府三管領家の筆頭格となった。
なお、徳川幕府を開いた徳川家康は河内源氏の新田氏の傍流である得川氏を自称した。』
(前九年の役(Wikipedia)より)
朝廷と東北勢による「前後の戦争」という意味で、「前」と「後」を冠にもつのであろう。
また、後三年の役の火種は前九年の役の戦後処理からくすぶっていたようである。
『12月17日頼義、騒乱鎮定を上奏。しかし康平6年2月7日の叙目では頼義は意に反して陸奥守ではなく正四位下伊予守となった。
貞任の弟安倍宗任らは伊予国のちに筑前国の宗像に流された。
このことは平家物語にも記述が見える。
清原武則はこの戦功により朝廷から従五位下鎮守府将軍に補任されて奥六郡を与えられ、清原氏が奥羽の覇者となった。
藤原経清の妻であった安倍頼時の息女は敵の清原武貞の妻となり、藤原経清の遺児(亘理権太郎後の藤原清衡。奥州藤原氏の祖)共々清原氏に引き取られたが、このことが、後の後三年の役の伏線となる。』(前九年の役(Wikipedia)より)
前段の引用の中に『足利氏が「斯波郡」を領有して「斯波氏」を名乗り』とあった。
『斯波氏(しばし)は、武家のひとつ。
本姓は源氏。
家系は清和天皇の血をひく清和源氏の中の河内源氏の棟梁・鎮守府将軍源義家の子である義国を祖とする足利氏の有力一門。
室町時代に幕府の三管領の一つとなった一族であり、越前・若狭・越中・山城・能登・遠江・信濃・尾張・加賀・安房・佐渡などを領した守護大名・戦国大名。
また一門は奥州探題・羽州探題を代々歴任し、一時は九州探題・関東管領にも任じられた。』
(斯波氏(Wikipedia)より)
斯波(しば)は「ペルシャ」の漢字としても知られる。
同じ音を持つ「シバ王国」は、旧約聖書とコーランで言及されている歴史上の王国である。
『シバ王国、あるいはサバ王国は、タナハ(旧約聖書)とコーランで言及されている歴史上の王国。
王国の所在地については、エチオピアかイエメンかで議論がなされているが、エチオピアとイエメン双方に位置した可能性もある。
旧約聖書におけるソロモン王とシバの女王の話で知られている。』
(シバ王国(Wikipedia)より)