過酷な彦根藩側の処分~桜田門外の変(5) | 中山道を歩こう

過酷な彦根藩側の処分~桜田門外の変(5)

襲撃した水戸藩士と薩摩藩士(1名)が切腹したり斬首されたりしたことは現代の日本人にもなんとなく理解できる。

その覚悟を持って実行したのでもあろう。


しかし、襲撃された彦根藩側の死亡者の数の多さに驚かれる。

事件のあとで、仲間から多くのものが殺されているのである。


『彦根藩は石高も35万石から25万石に減らされました。

彦根藩では、これに先立って直弼の腹心だった長野主膳や宇津木景福を斬首・打ち捨てに処しましたが、減封は免れられなかったのです。』(Yahoo!知恵袋に投稿された知識より)

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1318354163


『井伊家の側は直弼以外に8人が死亡(即死者4人、後に死亡した者4人)し、13人が負傷した。


死亡者の家には跡目相続が認められたが、直弼の護衛に失敗した生存者に対しては、2年後の1862年(文久2年)に処分が下された。


草刈鍬五郎など重傷者は減知のうえ、藩領だった下野の佐野に流され揚屋に幽閉される。


軽傷者は全員切腹が命じられ、無疵の者は士分から駕篭かきにいたるまで全員が斬首、家名断絶となった。


処分は本人のみならず親族に及び、江戸定府の家臣を国許が抑制することとなった。


彦根藩側

井伊直弼(大老 彦根三十五万石藩主。享年46 

岩崎徳之進重光(伊賀奉行。負傷、帰邸後死亡。) 

小河原秀之丞宗親(小姓。闘死。享年30 

加田九郎太包種(騎馬徒士。闘死。享年31 

河西忠左衛門良敬(剣豪。闘死。享年30 

日下部三郎右衛門令立(物頭。負傷、藩邸で死亡。享年39 

越石源次郎満敬(負傷、帰邸後死亡) 

沢村軍六之文(闘死) 

永田太郎兵衛正備(闘死) 


朝比奈三郎八(無疵、帰邸の為入獄、1862年斬首) 

朝比奈文之進(無疵、帰邸の為入獄、1862年斬首) 

小幡又八郎(無疵、帰邸の為入獄、1862年斬首) 

小島新太郎(無疵、帰邸の為入獄、1862年斬首) 

長野十之丞(無疵、帰邸の為入獄、1862年斬首) 

藤田忠蔵(無疵、帰邸の為入獄、1862年斬首) 

水谷求馬(無疵、帰邸の為入獄、1862年斬首)』

(桜田門外の変『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋)


この中の一人が、他藩へ駆け込んだあの「赤合羽」だったのである。

無疵、帰邸の為入獄、1862年斬首)

死亡者の家には跡目相続が認められたという。

それは死を賭して藩主を護ろうと努力をしたからである。


生きて助かったものは、仲間からも許されないという厳しい掟である。

幕府の法度なのであろう。


他藩へ蒼ざめた顔で駆け込んだあの赤合羽も、斬首されたに違いない。


幕末百話から赤合羽の駆け込みのシーンを再掲しよう。


『かかる所へ供廻の仲間(ちゅうげん)で、赤合羽を着た男が、トットットッと、雪の中を転(まろ)びつ起きつ、駆け込んできまして、慌しく「大(た)、大変、大変でございます」と震え声。

「ナ、ナニが大変だ」と問いますと、「ただ今桜田門外で、大老井伊掃部頭(かもんのかみ)様が水戸の浪士に首をお取られ遊ばした。大変な騒ぎでございます」と顔の色を青くして、唇の色まで変えていうのです。(以下略)』

この様子であれば、「供廻の仲間(ちゅうげん)で、無疵の男」ということになる。


「無疵、帰邸の為入獄、1862年斬首」となったのは、朝比奈三郎八、朝比奈文之進、小幡又八郎、小島新太郎、長野十之丞、藤田忠蔵、水谷求馬の7人いる。


幕末百話の他藩の武士が目撃した赤合羽が誰なのかはわからない。

直感では、親子か兄弟の同姓と思われる2人の内、若い方(序列の低い方)と思われる朝比奈奈文之進ではなかったか、と私は思っている。


何故かというと同じく無疵の父か兄から、近くの他藩邸へ知らせて来いと命じられた可能性があると思うからである。


現場を見苦しくない状態にし、大老暗殺の事実を秘匿するという大事な任務が生存者にはあり。

大老即死では、幕府の面子や威信が丸つぶれになる。


現にこのあとで彦根藩は、井伊大老は怪我をして寝込んでいると装い、跡目相続の儀式を優先している。


無疵の者たちの斬首という刑はむごい。

井伊大老が吉田松陰に下した罰も斬首であった。


武士は切腹が死罪である。

身分を武士から庶民へ格下げし、庶民の極刑である斬首を言い渡されているのである。


あの赤合羽は、藩主のための名誉の切腹ではなかった。

運が悪いとしか言えない。


「処分は本人のみならず親族に及び、江戸定府の家臣を国許が抑制することとなった。」とあるように、余りにも厳しい幕府の掟のため、これ以降各大名は国元もとから家臣を江戸住まいさせなくなったということだ。


武家の跡継ぎである嫡男は国元に残し、次男三男を江戸へ住まわせ傭兵として大名行列を護衛させたようだ。


各藩が江戸詰め勤務をこのように粗末に扱うようになったことも、幕府の威信が墜ちていく証左であろう。