真珠湾攻撃は米国は予知されていた。 それを大統領府は知っていながら、先制攻撃を日本にさせる。 在米日本大使館の怠慢ゆえに宣戦布告通知が遅れ、卑怯な攻撃だと米国民を激怒させた。 米国民はそれまで参戦に消極的であった状況が一変する。 米国政府は望んだ参戦を真珠湾攻撃によりなし遂げた。

 

 後になってこれらのことは云われるようになったが、確かに真珠湾攻撃は戦術的には大勝利で太平洋の米国主力艦を壊滅させた。 しかし、米国海軍は日露戦争以来の大鑑巨砲主義を捨て空母を主力にする方針に変えさせた。 米国は10倍にも及ぶ建造能力を生かし、週に1隻の空母を進水させるようになり、その後の戦争にそれをを使い大活躍させた。 真珠湾攻撃の戦術的成功だけでは戦略には勝てない例となった。

 

 日本は、米国を参戦させずに南下して石油を確保して、インドへ向かい英国を屈服させて勝利する勝利戦略を持っており、真珠湾攻撃により放棄することになる。 また、それまでの日本海軍大戦略・漸減邀撃戦略・待ち伏せ戦略が役にたたないものになった。 その戦略による建艦計画で、日本海軍が営々と造り上げた戦艦大和が役に立たないものとなる。

 

 山本五十六は開戦から1-2年のみは暴れて見せると云いながら、避戦には失敗して、真珠湾をやらせてくれないなら、辞任すると脅迫して海軍戦略を変更させた。

 ミッドウエイ海戦では勝てる戦力差がありながら空母のはるか後方の戦艦部隊に座上して指揮して大敗を喫した。 これらのことにより山本凡将論に小生は与する。

 

  林千勝によると五十六は赤い官房長官と云われる風見章と繁く手紙の交換をしていたようだ。風見と米内光政とはとても親しい間柄でさかんに行き来や文通をしていた。風見が米内のもとへ出向くといつも山本五十六がいて、三人で策を練っていた。長男の風見博太郎によると、風見は近衛文麿、山本五十六、米内光政と数多くの手紙のやり取りをしており、終戦後すぐにすべてを焼却した。 それゆえか、何を協議していたかは、戦後明らかになることはなかった。

 

 

     2023-9-14

 

 

 

 

 

 

 

  真珠湾攻撃総隊長の回想  その1 

      淵田美津雄自叙伝 による


 

 明治35-昭和51   講談社文庫  中田整一 編・解説



  淵田美津雄の回想記を読みました。彼は真珠湾攻撃では、攻撃隊の総隊長として飛行隊の指揮をして、「トラトラトラ」を発信して奇襲の成功をおさめる。ミッドウエイ海戦にも隊長で出撃寸前に盲腸を患い艦内で入院した。その空母赤城が沈没して重傷を負う。その後連合艦隊参謀としてエンガノ沖海戦での囮作戦を着想し、米空母群の引きだしに成功すれど、戦艦大和を含む栗田艦隊は謎の反転をしてしまう。 広島原爆には前日まで広島に滞在していて難を逃れ、広島と長崎の被害視察を行う。不思議と後遺症を負うことは無かった。

 戦後に米国での捕虜になった人からの尋問を行い、その時に収容所で起こった、両親がスパイの疑いを受け首を斬られた娘が日本人捕虜に対する献身的な援助をしたことを聞く。また、東京空襲を行ったドウリットル航空隊員で捕虜になり虐待を受けた人が、戦後に日本の駅頭で布教しているのに興味を持ち、彼は聖書を読む。

 入信の動機は、小生のような古楽の宗教音楽が大好きでも無新論者には説明できません。 聖書に接するだけではなく、それまでの奇跡のような体験で、ひと飛びするような霊感がないと宗教に入ることはできないような気がします。 それから彼は洗礼を受け、アメリカで伝道をすることになります。 トル-マン大統領、アイゼンハワ-大統領」、マッカ-サ-元帥、ハルゼ-提督、ニミッツ元帥、スプル-アンス大将などそうそうたる面々に会うことができました。彼らといろいろな話をします。そのことは後に書くつもりです。

 彼は日本人から敵の宗教でなく神道や仏教ならよいのに、敵の宗教の懐に入って糧を得たと云われ。米国ではパ-ルハ-バ-のだまし討ちの余韻が残っている状況での伝道あった。どちらも良い情勢ではなかった。 彼は自分がアメリカに渡るのは、決して罪のためではない。戦争は互いに相手への無知から起き、アメリカにも非の有ることだ。相手に日本人の何たるかを理解してもらい、自分もアメリカ人を知ろう。この覚悟で多くの聴衆に向かって愚かしさと憎しみの連鎖を断つことを訴えた。


  略歴
1902・明治35  奈良県に誕生

1924・大正13  海軍兵学校卒・52期

1938・昭和13  海軍大学卒・36期、 中支作戦従事

1940・昭和16  中佐任官、真珠湾攻撃総隊長

1941・昭和17  ミッドウエイ従軍、盲腸で参加できず重傷を負う

1944・昭和19  連合艦隊航空首席参謀、捷1号作戦着想、、大佐任官

1945・昭和20  海軍総隊航空参謀、広島長崎原爆視察、

1949・昭和24  デイシェイザ-の手記と出会う

1951・昭和26  洗礼を受ける

1952・昭和27  第1回米国伝道, 以後昭和40まで7回渡米伝道
1 969・昭和44  死亡



   2019-8-30









  真珠湾攻撃総隊長の回想  その2

               淵田美津雄自叙伝による



 





  憲法制定と再軍備

 占領軍最高司令官として在職中の中期以後、マッカ-サが書いていた回想録の裏付けとなる日本側資料を、私・淵田が蒐集提供していたので、東京でも3度ばかり食事によばれたことがあった。このたびは、ニュ-ヨ-クで招かれた。アストリアホテルのビル中層階のフロアを占有するアパ-トに住んでいた。皇室からいただいた菊の御紋入り什器が飾ってあった。再会して驚いたのは、見違えるほど、老いぼれたとの感じであった。以下食事中に彼が私に語った。

 「占領軍最高司令官としてやったことは、すべてがよかったとは思っていない。恨まれていることもあろう。が、日本をよくしたい気持ち念頭において、ワシントンを振り返りつつ占領政策の追行にあたった。

 日本憲法に戦争放棄条項を付加させたことは、今にして考えれば、時期尚早であった。当時自分は、原子爆弾の出現によって、将来の戦争は勝敗がつかないだろうと考えた。まったく人類の破滅でしかない。そのような見地から、世界は戦争放棄の段階に近ずきつつあるとの感を抱いていた。  日本を軍事的に無力化する連合国の方針もあったし、また日本をして率先、世界に戦争放棄の範を垂れさせようとの意図もあった。

 ところがその後の世界の客観情勢は戦争放棄どころか、力に対するには力のバランスで、やっと平和を保っている。かくて日本も自衛力が必要だと云う風に、自分は再考を余儀なくせしめられたのであった。」 以上が、日本占領の最高司令官を解職せしめられて、丸腰になった往年のマッカ-サ-元帥の述懐であった。(淵田美津雄自叙伝)

 また、マッカ-サ-は議会の証言でも日本の開戦は自衛のためであると言っています。

 最近は北朝鮮が原爆とミサイルを持ち、韓国とも対立が深まっている。 南北統一して日本に立ち向かおうと言明している韓国の文大統領が存在する。 中国はミサイルの照準を日本に合わせて、尖閣と沖縄をうかがっている現状です。 アメリカは内向きになってきてというより、力の限界で衰微してきたというのが本当でしょう。

 日本は自主憲法を作成し、自力の国防を持ち、それでもってアメリカと同盟する新しいバ-ジョンが必要です。トランプならそれができそうな状況です。今までのアメリカのエスタブリシュメントは日本の自主独立を望んでいませんでした。遅きに失したということにならねばよいのですが。



   2019-9-2









  真珠湾攻撃総隊長の回想  その3

        淵田美津雄自叙伝による

  捷一号作戦


 


 栗田艦隊航跡図



連合艦隊司令部では、栗田艦隊に対して、この作戦において作戦目標は、レイテ沖に突入して、敵輸送船団の撃滅であることを命令した。栗田艦隊の作戦参謀は敵艦隊を殲滅せずして商船団を沈めることは本末転倒であると述べている。このような艦隊の空気であったようだ。そのことは連合感知司令部は百も承知であった。こちらにはその戦力がないのである。もはや本が失われている、末だけが残っているのでこれを有効に使おうとする作戦であった。

 栗田艦隊のユ-タ-ンは戦後も謎で、栗田提督本人もその理由も語らず、小生にも永らく疑問が残っていた。淵田さんの記述でやっと分かったような気がしています。下記の訓示を読み小生は謎の反転の意味が分かる。

 出撃に当たって栗田長官の訓示は「連合艦隊命令により、総力を挙げて、レイテ湾に突撃するのであるが、いやしくも敵主力十艦隊撃滅の好機あれば、これと乾坤一擲の決戦を断行する所存である。.....力戦奮闘されたい。」 これを読むと命令された敵商船団の撃滅の熱意ではなく、敵主力との決戦をしたい熱意のほうが旺盛であったようである。

 小沢囮艦隊の犠牲がハルゼ-空母艦隊の北へのつり上げに成功して、栗田艦隊はマッカ-サが最悪の日と呼ぶように、レイテ突入、適輸送船団撃滅の道が開けた。しかし栗田艦隊は米国の護衛空母群を発見し追撃してしまう。 レイテ湾突入を断念してブルネ-に引き返した。この作戦で戦艦武蔵を失い、大和は残ったが、これ以降の連合艦隊としては終焉で、戦艦大和の沖縄特攻で大和は沈んだ。


 連合艦隊司令部と栗田艦隊との作戦目的のすり合わせがしっかりと出来ていないのが原因です。 淵田は航空主戦で真珠湾攻撃では世界で初めての空母の集中運用で成功した。また、航空のみでマレ-沖海戦では英国戦艦2隻を沈めた。日本は世界の先鞭をつけておきながら、最後まで大鑑巨砲主義を払拭できませんでした。それを学んで実行したのは米国でした。淵田の考えは最後まで日本海軍の主要なものにはなりませんでした。

    2019-9-5
 



 

 



  真珠湾攻撃総隊長の回想  その4

        淵田美津雄自叙伝による

  米国首脳との会見



 トル-マン大統領

 1953年2月 トル-マンと会う。 「キャプテイン淵田、真珠湾はね、ボス・ギルテイ(両者同罪)だよ」そりゃ神の前にはそうでしょうけど....。トル-マンは「いいや、神の前ばかりではなく、人間の前にも、いまに史実としてそれが明らかになるであろう」と言った。 それから戦犯問題にも触れ、「まもなく,戦犯問題は打ち切られるよ」。 



 アイゼンハワー大統領

 1953年2月22日 ナショナル長老教会で合う。大統領の隣席で礼拝を受ける。暖かい気持ちの人だと思う。



 マッカ-サ-元帥


 

Chester Wiliam Nimitz 1885-1966

 ニミッツ元帥・太平洋艦隊司令長官

 戦後横須賀に淵田はニミッツに召喚される。彼は東郷元帥に私淑していると話した。天皇戦犯問題の解消について助言を懇請した。天皇を戦犯扱いしているようでは占領政策がスム-ズにいかなくなるであろうとニミッツは進言した。これにマッカ-サ-も了承した。

 福岡にある教会の鐘を兵隊が持ち去ったものを返還させる、豊田副武から送られた軍刀を返還した。



 スプル-アンス海軍大将・ミッドウエイ海戦の司令長官

 自宅であったりレストランで和やかに接待にあずかる。



 ドウ-リトル・東京空襲発案及び指揮官

 シェル石油の宣伝部長であった。彼の部下のデイシェイザ-に合うようすすめてくれた。



   2 019-9-10





 

   真珠湾攻撃総隊長の回想  その5


            淵田美津雄自叙伝による

   知らぜらるハワイニイハウ島事件

 





 

 西開地重徳さんの不時着したゼロ戦


 戦艦大和の沖縄特攻の折に、米軍の飛行機による大和攻撃最中に飛行艇が大和近くに着水して米軍パイロットを救出する場面がありました。飛行艇乗務員は最も勇敢な行動です。帝国海軍乗組員にとっては不思議な光景と映ったことでしょう。日本は特攻にパイロットを消費していたころですので。 




 淵田氏によると、日本海軍において初戦では、パイロットの不時着地点を事前に決めておき、潜水艦を配備して救出する作戦を計画しました。真珠湾攻撃ではハワイ諸島の西端にあるニイハウ島がそれでした。この島はロビンソン家の個人所有で牛や羊の管理で少数の人しかいないのを事前に調べていました。

 パイロットの養成に特に母艦パイロットには、1000時間の経験・年数3年を要すると淵田は述べています。彼は源田参謀と相談して連合艦隊司令部も同意して、このときはイ号74潜水艦を沖に待機させていました。 しかし、作戦を変更してパ-ルハ-バ-湾口の攻撃に潜水艦を振り替えてしまう。  ゼロ戦1機が予定どうり不時着して、救出を待ちましたが、潜水艦は現れずに、西開地飛曹は通話暗号表を守るために現地住民のトラブルを起こして、彼をかばってくれた通訳として呼ばれた日系人原田と共に自決してしまいます。 この後も、日本は最後までパイロットを消耗品としか扱っていません。

 淵田がカウアイ島を訪ねた折、手紙が転送されてきて、「ニイハウ島へ墓参りに行ってください。之が部隊長の大責任と思います」と書かれていた。淵田は戦時中も戦後も、ニイハウ島に不時着機があるのを知らなかった。原田義雄さんの未亡人アイレンさんは、日本兵をかばったという反逆罪で3年間服役した。彼女を訪問して詫びニイハウ島に訪れた。 淵田は潜水艦を待った西海岸で1日中たたずんで、埋葬地を訪ねた。



   2019-9-14

  

 

  真珠湾攻撃総隊長の回想  その6


      淵田美津雄自叙伝による

    山本五十六凡将論


 

 山本五十六 1884-1943



 開戦に始まって、南方作戦完了までの4か月間を連合艦隊は第一段作戦と呼んでいた。しかし、この作戦中、山本司令長官は何をしていたのか。1941年12月16日、戦艦大和は就役して編入された。これを旗艦として座乗して戦艦群を率い主力部隊と呼称して柱島泊地にとどまり遊兵として始終した。南雲機動部隊の空母6隻を基幹として戦艦群で護衛して太平洋に打って出て、敵の戦艦群を撲滅した今、ハワイや西海岸を叩きまわって、アメリカほん国民の戦意を喪失せしめるほどの、作戦構想が山本長官に沸いてこなかったものであろうか、当時の私には不思議でならなかった。



 1. 南雲機動部隊の4隻の空母を南方作戦に転用した。ラバウル攻略作戦の支援であった。ラバウル及びカビエンを空襲しこれらは敵は有力な航 空兵力を配備していなかった。ラバウル空襲を指揮したが、簡単に片付き、爆弾を抱いたまま帰還したのでは危険なので物色していた。こんなど こに落とすか苦労するような作戦に主力の空母群を投入していいのかと思う。 私の尊敬する山本大将であったが、凡将論が私の胸に出始めたの であった。

 2. 「ミッドウエイ海戦においての連合艦隊山本司令長官の全般作戦指導の凡将振りであった。彼は戦艦大和に座乗して、大和、長門、陸奥、伊 勢 、日向、山城の7隻の戦艦群を率い、これを主力部隊と称して、南雲空母部隊の後方3百マイルに占位市ながら、全作戦の支援に任ずると誇称 していた。南雲部隊の空母4隻を失うと、主力どころか、逃げ帰るほかなかった。大和の艦内で山本は将棋をさしていたのではと云われている。 

 3. ガタルジャナルの攻防をめぐる作戦航空作戦「い」号作戦の中、まさに日本海軍の全航空戦力を注ぎ込んで、航空決戦を意図していたのだ  が、次第に航空消耗戦の様相を呈してきた。そうなると補充である。こちらは補充不如意である。ここにおいて、山本大将は背に腹はかえられな いとばかり、第3艦隊の空母搭乗員全力を陸上に転用して、すかり消耗戦ですりきってしまった。このことは、ニミッツの米国機動部隊のマリア ナ攻撃の備えをなくしてしまった。



    2019-9-16