続いては、塔頭勝林寺 です。
冬御朱印が昨年12月17日より、続いて1月7日より新春御朱印ということでいただいて参りました。
ちなみに冬御朱印は第2弾が1月21日から授与されるようです。

冬朱印『毘沙門天(松竹梅)』


冬朱印『百祥(松竹梅)』


冬朱印『竜聚鳳翔(松竹梅)』


続いては建仁寺にやってきました。
前回1月7日の京の冬の旅紀行の続きで、まずは日頃は非公開である、塔頭久昌院 です。
こちらは、徳川家康に仕えた奥平信昌の菩提寺として創建されました。
奥平氏は奥三河の国人で、祖父定勝の代までは今川氏に属していました。
しかしながら、1560年に桶狭間の戦いが起こり杉本哲太さん、否、井伊直盛ら国人衆らは戦死、東海一の弓取りと持て囃された春風亭昇太さん、否、今川義元は服部小平太に首をかっ切られて呆気なく消え去ります。
丁度真田丸において武田家を失った信濃国人衆達のように、今川家を失った駿遠33カ国の国衆達は氏真に対して離反を始めていきます。
奥平家は定勝の頃は今川家に従っていたものの、嫡男定能に家督が譲られ、1562年に松平元康が今川家より独立すると1564年には徳川についてしまいました。
暫くは徳川方として動きますが、遠江は徳川、駿河は武田に切り取られてしまい、1568年に信長包囲網を声高に叫んだ15代将軍足利義昭に呼応して武田信玄が上洛を急ぎ、織田と盟約関係にあった徳川を踏み潰そうと1571年から駿河より三河に侵攻を開始します。
奥平定能は三河まで入り込む武田軍に降り武田方の将となります。
1573年、武田侵攻に対して家康は信長と示し合わせて奥平定能貞昌親子を、娘の亀姫を嫁がせることなどで調略し徳川方に寝返らせます。
信玄没後、武田を継いだ総領勝頼はこれを聞き激発、奥平父子が兵500で守る三河長篠城に15000の兵を以て襲いかかりました。
武田方の城攻めにより兵糧庫を焼失してしまった為、家臣鳥居強右衛門勝商を岡崎城に派遣し援軍を要請、家康もまた信長に援軍を要請しており、織田方30000徳川方8000の来援が確約されました。
喜んだ強右衛門は岡崎より長篠に戻る途中運悪く武田方に発見され、厚遇と引き換えに援軍は来ないように長篠城に向かって叫ぶように言われますが、声高らかに来援が数日中にあることを叫び、殺されてしまいます。
その後2日間、長篠城兵は武田の猛攻を凌ぎきり武田騎馬隊を殲滅する長篠合戦へと繋がり、徳川と武田の命運は逆転するのです。

さて、久昌院ですが、1608年に建仁寺295世三江紹益を開山として、三河作手藩主の4男忠明が父信昌の菩提を弔うために開かれ、信昌の戒名である『久昌院殿泰雲道安大居士位』より寺名は名付けられました。
今回の京の冬の旅では、絵師(浮田)一蕙が描いた奥平家の栄かの源となった「長篠合戦図」が描かれた襖絵や、書院「高松軒」、長欄間を使い、また二間続きの茶室には奥平家の唐団扇紋と将軍家の葵紋が描かれた襖に、寄託している長沢芦雪の指頭画も飾られていました。
その更に奥には茶席「遠州別好ノ席」が竹篦画と共に残されていました。
ゆっくりと拝見したかったのですが、何せこの時季は足が冷たくて早々に出てしまいました(ノД`)

薬師如来


高枩軒


次に同じく、塔頭両足院 へお伺いしました。
12月9日から1月29日まで、伊藤若冲の「雪梅雄鶏図」の掛軸を拝観することができました。
久昌院より若い人や女性が圧倒的に多かったのが印象的で、御朱印帳も飛ぶように売れていましたが、まだまだ使いきれてない御朱印帳がゴロゴロあるので今回は涙をのんで見送りました(ノД`)
(久昌院の御朱印帳も諦めたんです…)

照顧


建仁寺を後にして、補陀落山六波羅蜜寺 へと向かいました。
なぜ、六波羅蜜寺なのか。
それは去る1月11日に伺った勝尾寺の御朱印を見てそう思ったのです。
何か見慣れない印が左上に増えているのではないかと。

http://www.saikoku33-1300years.jp/stamp/(西国三十三所草創1300年サイト)

こちらによれば、西国三十三寺院において、2017年1月から事業終了日まで、限定御朱印「特別印」の授与が行われるのだそうです。
勝尾寺の御朱印一つだけでは何だか寂しいので、再度お伺いしてみたのです。

草創1300年記念
西国三十三所霊場第17番札所 六波羅堂


草創1300年記念
西国三十三所霊場第17番札所 御詠歌
重くとも 五つの罪は よもあらじ 六波羅堂へ 参る身なれば


さて、次は六波羅蜜寺の前の道を少しずつ北に進んだ角にある、桂光山敬信院西福寺 です。
実に生々しい檀林皇后九相図は何回拝見しても、リアル過ぎて衝撃的です(ノД`)

阿弥陀如来


阿弥陀如来(御影)


何とも言えない気分になりながらも空腹を覚えて、新進亭 でお昼にしました。ほぼ一年ぶりの白味噌ラーメンです。お店の方々もお変わりなさそうで「久し振り」とのお言葉に嬉しくなり、ほんとに久し振りの白味噌ラーメンを堪能しました。

さて、本日の最後は、紫雲山金戒光明寺 となりました。
2013年1月8日、2015年5月5日とお伺いさせていただいておりますが、前回お伺いした時には無かった茶屋が境内にできていてビックリしました。
さて、今年は1867年から数えて150年に当たることから京都市が主体となって「大政奉還150年記念」としてキャンペーンが張られています。
事業の一環として今回の京の冬の旅とも提携しています。
金戒光明寺といえば、やはり1862年12月24日に1000名の会津藩士と共に京都守護職として当寺を本陣に定めて上洛した松平肥後守容保です。
金戒光明寺は会津藩に今回公開される大方丈(1944年再建)と宿坊が提供されました。

さて、御影堂に入りますと本堂に遷られた文殊菩薩がその眷属達と鎮まられています。
尊像は、運慶作と伝えられています。
古くは、北西にあった中山宝幢寺の御本尊であったそうですが、廃寺となったので近くの小堂で祀られていました。
その後、金戒光明寺の方丈に遷され、1633年に2代将軍秀忠の菩提を弔う為に三重塔を建立した時に御本尊として遷されます。
江戸時代中期には安倍文殊院、丹後智恩寺と共に三文殊として信仰を集めました。
欠損していた善財童子を新調した上で、獅子に騎乗する文殊菩薩を中心として、手綱を執る優填王・仏陀波利三蔵・最勝老人の各像も修復され、海を渡って中国人五台山へと向かう姿を再現する渡海文殊形式が完成し2008年に御影堂へ御遷座されたのだそうです。
そのまま再建された大方丈へと向かいましたが、八重の桜でも描かれていた容保と各士の謁見の間が再現されていました。
また、大方丈の襖絵は松の間が今尾景祥筆で松の大木が描かれていますが、襖の取っ手の部分が降龍の眼にも見えるという不思議な襖絵です。
また、虎の間は久保田金僊筆で4頭の虎が描かれていますが、顔があるのは3頭だけで、左の襖を右に動かすと2頭に早変わりするというこちらも不思議な襖絵です。
大方丈の東庭園の西側約200坪は法然上人800年大遠忌記念として2006年に整備された「紫雲の庭」という庭園があり、白川砂が全面に敷き詰められ、杉苔により築山が配されている回遊式庭園でした。
こちらでも寒さは変わりませんでしたのでゆっくりはできませんで、そのまま出てしまいました。
日頃は遠目からしか目にできない仏像を間近で観ることができたので、とても良い機会を得られました。

為會津松平肥後守公祈願 黒本尊



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