本日は以前から気になっていた、真田丸絡みでの訪問です。
和歌山に行ってまいりました!

最初に訪れたのは、万年山慈尊院 です。
こちらは、816年に弘法大師空海が嵯峨帝より高野山の地を賜った際、参詣口に当たるこの場所に伽藍を創建して高野山への玄関口とし、一山庶務を行う政所が設置され、高野山への宿所にもなったのだそうです。
空海の母である玉依御前は、讃岐から息子が開いた高野山を一目見ようとやって来たのですが、女人禁制であったためこちらに滞在します。
空海は頻繁に高野山から下りてきては母に会いに来たのだそうですが、835年に死去してしまいます。
玉依御前は御本尊の弥勒菩薩を深く信仰したことと、母が弥勒佛となる霊夢を空海が見て弥勒佛を彫り上げて祀ったことから、弥勒佛の別名である慈尊にちなんで政所は慈尊院と呼ばれるようになったのだそうです。
また、この故事により女性の高野山参りは山麓の慈尊院までということから、「女人高野」とも呼ばれています。

弘法大師御母公 弥勒佛


仏塔古寺十八尊第6番 弥勒佛


紀伊之国十三仏第6番 弥勒佛


こちらでは、すぐ隣の勝利寺さんの御朱印もいただけます。
なんでも、慈尊院や官省符神社ができる前の815年に空海が建てて厄除観音を奉納したのだそうです。

十一面厄除観音



こちらの寺域より、丹生官省符神社 への長い階段が見えております。
慈尊院の南の高台に位置し、119段の急な階段を登りきれば鳥居をくぐり境内に着きます。
816年弘法大師空海が慈尊院を開いた際に、参道中央の正面上壇に丹生高野明神社(現丹生官省符神社)を創建、丹生都比売大神と高野御子大神を主祭神として祀ったそうです。
ここは、弘法大師が真言密教の道場の根本地を求め京都の東寺を離れて
各地を行脚されていた時に狩場明神(高野御子大神)が猟師の姿となって現れ、従えていた白と黒の犬の案内で弘法大師空海を高野山に導き、
開山することができたと伝わっています。
その由縁でこちらのおみくじは白と黒の可愛い犬の形をしていました。
官省符という名称ですが、高野山は藤原北家より寄進を受け寺領が広げ、1049年に他の紀伊内に点在する寺領などを返上する代わりにこの辺り一帯の一括領有を主張し、認められた荘園が官省符荘であり高野本荘と呼ばれています。
太政官符、民部省符によって不輸租を認められたという意味が官省符荘にはあることから、国家より高野山の荘園は非課税であるとお墨付きを貰っていた訳で、この官省符荘の鎮守社であったと言われています。
本殿の後方に高野山を仰ぎ見ることができますが、遥か向こうな感じがしました。20kmほどなんですがね…。
1985年放送の大河『真田太平記』では真田幸村を演じられた草刈正雄さんは、放送当時にこちらに参詣されたようで、社務所にはその時の写真とサインが飾られていました。
真田丸ご一行は来られておられないのだとか…。

弘法大師創建 丹生神社


さて、次に向かったのは、丹生都比売神社 で大きく立派な標識に誘われるように向かいましたが、九十九折りの道を走ること20分余り、ようやく到着できました。
こちらの創建は高野山開山よりも早く今から1700年も前だと伝わっています。
その昔、紀の川流域に降臨した丹生都比売大神は天照大神の妹神で、当地で農耕を広められたそうです。その子、狩場明神(高野御子大神)が弘法大師空海を高野山に導いた神とされ、神領であったこの山を丹生都比売から譲り受け 高野山を開山したと言われています。
それゆえ、こちらでは狩場明神をお祀りして古来より高野山の鎮守社として知られ、密接な関係を保ってきました。
また、紀伊国一之宮であり、日本全国の丹生都比売神を祀る神社の総本社でもあります。

朱塗りの鳥居をくぐるとすぐ目の前に同じく朱塗りの大きな太鼓橋がありました。この太鼓橋は、住吉大社の太鼓橋と同じく淀君が寄進したものだそうです。
木々に囲まれた参道の奥に檜皮葺きの屋根が美しい楼門があり、更にその奥に本殿が四つ並んでいました。
2004年には、「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成資産の一つとして丹生官省符神社と同じく世界文化遺産に登録されています。
こちらで催されるお祭りに真田信繁が誘われていた、とする記録が残っていると言うお話もあるようです。

紀伊国一之宮 丹生都比売神社


お昼の時間になり、今日のランチは グラタン・カフェ にしました。場所は九度山町九度山。いわば九度山の中心部です。
駐車場脇にある、看板代わりの小さな小屋から階段を降りて行くと清流丹生川を見下ろせるログハウス風のお店の入り口に到着。隠れ家的な静かなお店の入り口横にも『真田丸』グッズがたくさん並んでいました。
その前の席に着いて、ここはやっぱり『真田丸ランチ』を注文。
コーンスープに始まり、前菜三種とサラダが運ばれてきました。九度山名産の柿ドレッシングでいただきました。そしてメインのグラタンには目を引く有頭海老2匹の横に六文銭の真田の旗印が!気分が盛り上がりますね。豪華に並ぶ雲丹や帆立に三日間熟成させたというホワイトソースが絡み合い、濃厚な味わいが口の中に広がります。
見た目もお腹も大満足のランチでした。

食後に真田庵へと向かいました。
現在、九度山町は町を上げて真田色に染まっています。
そもそも九度山というのは、空海が母の許を訪ねるのは月に九度であったことから、慈尊院の辺りがそう呼ばれるようになったのだそうです。
時代は降り、関ヶ原合戦の戦後処理において、徳川秀忠勢に甚大な遅滞を与えた真田安房守昌幸・左衛門佐信繁父子には秀忠の強い意向が働いてか領地である小県郡、吾妻郡、沼田を没収の上、死罪が下されました。
犬伏の別れで敵味方となった長男伊豆守信幸は舅である本多中務大輔忠勝と共に助命嘆願を行った結果、家康を翻意させ助命の上、高野山への蟄居の命へと変えることに成功しました。
1600年12月13日に高梨内記ら16名の家臣団と次男信繁の妻子らと共に無敵の城塞であった上田城を発し、昌幸一行は高野山に向かうのでありました。
しかしながら、高野山山中は女人禁制であり、16名の家臣団以外の家中の者も含めると総勢数十名であったので、信繁の妻子らは丹生都比売神社が御鎮座されている細川という集落へ留めて、昌幸父子は蓮華定院という宿坊に蟄居し、分かれて滞在していました。
蓮華定院と紀州和歌山を治めていた浅野紀伊守幸長から幕府に対し九度山へ移すよう働きかけがあり、許可が出て一団は合流して九度山へと移ったことから、九度山と真田氏との接点が生まれたのです。

さて前置きが長くなりましたが、その九度山における昌幸一行の庵があった場所と諸説ある中で伝わるのが、真田庵こと伽羅陀山善名称院 です。

1741年に大安上人が、昌幸の庵跡と伝わるこの地に地蔵菩薩を安置して一堂を創建したのが善名称院の始まりであると伝わっています。

こちらは、庵主さまがお一人で切り盛りされていて、相当ご苦労されておられるご様子でした。
今年度はとりわけ真田丸紀行のおかげで沢山の方々が来られるようになったそうで、中には対応に苦慮される大変な方もおられるようです。
これからも昌幸と幸村の遺跡をどうぞ護ってくださいm(_ _)m

なお、敷地内に真田宝物資料館が併設されており、そちらも見せていただきました!
入られてた方、みなさん写真を撮られていたのですが、よかったのですかね…?

尼寺霊場第20番 梵字カ 真田地蔵尊


さて、再び脱線いたします。

真田丸の作中にもある通り、生活は家臣団の維持などで困窮したそうで信幸改め信之に資金と赦免を何度も依頼していましたが、昌幸は赦免の願い叶わず失意の中九度山において卒してしまいます。
上田からの16名の家臣団は昌幸が亡くなったことで13名は信之の許に帰参いたしましたが、青柳清庵、三井仁左衛門、高梨内記の3名だけは昌幸卒後も幸村と共に九度山に残りました。

ちなみに青柳清庵頼長の生家である青柳家は、北信濃の村上義清の家臣であったそうです。
村上義清に小県を負われた真田弾正忠幸隆は、父信虎を放逐し甲斐国守護となった武田晴信に仕官し、村上義清に対し失地回復を計ります。
その時に多数の村上方の信濃国人領主が幸隆の調略により寝返りましたが、青柳家もその時に武田方の将となりました。
信玄が亡くなり、長篠合戦において継嗣である四郎勝頼が敗北し武田家が天目山において滅亡した後、頼長は真田昌幸の臣となり信頼されたのだそうです。
その後真田家と歩み、昌幸没後は幸村に仕えて大坂入城を果たし存分に働いてから戦死したそうです。 

もう一人は三井仁左衛門景国です。
三井家は真田家と血縁関係もある近い間柄です。
景国が3人の中では一番若かったそうで、第二次上田合戦で初陣を迎えた以降は昌幸に従います。
昌幸没後は幸村とともに大阪入城を果たしますが、道明寺の戦いで負傷したことから戦線離脱します。
祖父宗忠が本願寺の坊官下間氏と親戚であったことから西本願寺で療養生活を過ごし、そのまま京に滞在しました。
幸村死後に景国の配下であった者共により京の伊達屋敷に幸村の次男大八達が送り届けられました。
なお、松岡茉優さん演じる春こと幸村の正室竹林院と七女あぐりは紀州伊都で隠れているところを浅野家に発見され家康に引き渡されました。
また、作中では黒木華さん演じる梅との娘である三女阿梅(伝承では高梨内記の娘が母であると言われています)は伊達家により仙台に連れて帰られます。
そのまま伊達家家臣の片倉家の侍女をしていましたが、1619年に景国が片倉家を訪れて侍女である阿梅は幸村の娘であることを告げたことで伊達家は認識したようです。
その後、景国は片倉家に仕えることとなり、また幸村次男の大八は片倉守信と名乗って仕官し、仙台藩士の仙台真田家としてその血脈を今に伝えます。
六女阿菖蒲はその片倉家を頼り、片倉定広の室となりました。

そして、もう一人は高梨内記です。
中原丈雄さん演じる内記は先述の北信濃において村上義清と覇を競った高梨政頼の一族であると言われています。
昌幸没後も幸村に従い、大坂で戦死したと伝わっています。
真田丸では内記にスポットが当たっているので、内記の最期についても刮目しないといけません。

おまけ
善名称院を出た後、梅下百貨店 へ向かいました。
どうしても真田紐関連品が欲しかったのですが、ストラップやパス入れなど気になるアイテムだけ仕入れてしまいました(^_^;)
早速来週から使ってみることにします!