最近、更新をサボって申し訳ありません(笑)
仕事が立て込んでなかなか社寺に足を運ぶことができておりません。
でもって仕事の合間に今回は無理矢理社寺に伺ってみました。

まずは、阿部野神社 です。
この『阿倍野』という名称は、第8代孝元帝の第1皇子である大彦命の末裔である阿倍氏がこの辺りを領したことに由来すると言われています。
因みにこの阿倍氏はその後、大化改新に貢献し左大臣に任じられた倉橋麻呂の系統より安倍晴明が出て公家の土御門家として続いていき、別家で蝦夷地方の平定に貢献した比羅夫の系統より武家の安東家(秋田家)、徳川譜代の阿部家(13家80万石)として続いていきます。
さて、当社の由来ですが、当地は阿倍野区北畠という地名である通り、1338年に南朝の功臣である北畠親房の子である鎮守府大将軍顕家が北朝方の高師直勢に敗れて享年二十歳で亡くなったと地とされ、1875年に北畠の有志が顕家を顕彰する祠を建立したことが始まりとされています。
その後1878年に顕家の墓を修繕と社殿造営願が大阪府の請願書が添えられ内務省に伺として出され、その結果、社殿創建は請願通り、墓は官費での建立と決定します。
更に府は、北畠顕家の赤誠は楠木正成や新田義貞ら他の南朝の功臣と同様故、社格についての伺を改めて内務省に出したところ、1882年に顕家親房親子を祭神とする別格官幣社の創建と、名称を阿部野神社とする決定を太政官より取り付けます。
計画は着実に進んで、寄付により適地を神社の敷地として整え社殿が1887年に完成、1893年に鎮座祭を行い現在に至ります。
この日はとんでもない雨が降っていましたが、なんとか無事お詣りできました。

阿部野神社


さて、次にお伺いしたのは程近い、天神ノ森天満宮 です。
こちらに到着したときは傘の意味がなくなる程の雨が横から殴りつけるように降ってきてとても困りました(笑)
こちらは、菅原道真が左遷先の大宰府へ向かう途中、住吉大社へ参拝する際に休息をした地と伝わり、その故事にちなみ地元の村人達により祠が建てられ、応永年間に京都北野天満宮から改めて御分霊を勧請したのだそうです。
元禄時代に再建された本殿にお参りを済ませて社務所に伺いましたところ、…でした。

天神ノ森天満宮



さて、気を取り直してお昼にしました。
天満天神繁昌亭の前を通り過ぎ商店街に少し入ったところにレトロな雰囲気の モーリ亭 がありました。“昔ながらの洋食屋”の看板にひかれてこちらにしました。
“一番人気”の目印がある「おまかせまかない丼」は御飯の上に温玉やエビフライ、唐揚げなどがてんこ盛りでボリュームたっぷりでした。ちょっと味は濃いめでしたが、真っ赤なテーブルクロスと店内にゆったり流れるBGMでゆっくり落ち着ける雰囲気でした。

気分一新し、次に立ち寄ったのは、堀越神社 です。
こちらは現在では宮司さまのご尽力により、一生に一度願いが叶う神社として有名パワースポットの名を勝ち得ましたが、元々は593年に聖徳太子により四天王寺が建てられましたが、その周囲に鎮護の為に建てられた四天王寺七宮の一つで、堀越の名は、境内南沿にあった堀を越えて参詣されたことから付けられたといわれています。

堀越神社


熊野第一王子之宮


隣にはいつの間にかファミマ茶臼山店が建っていますが、その名の通りこの『茶臼山』は今後エピローグに向かっていく『真田丸』の舞台である大坂の陣において枢要な場所として描かれます。
入口あたりには真田信繁の大きいパネルも飾ってあります。

※ ここから脱線します。

信長公がナレ死を迎えたり関ヶ原合戦が直ぐに終了してしまうことでも話題になっていますが、『真田丸』たる真田家を描くという点ではこれでいいのかなと思います。
本日の放送で、遂に我らがMG5昌幸さまが慶長16年6月4日、九度山にて病歿されます。
ここまで真田昌幸を時間をかけて描いた作品はなかったと思われます。
物心ついた時から『信長の野望』を楽しんできた私には今回の大河は格別なものでした。
オープニングでよく使われるシブサワコウさんことKOEIの襟川陽一社長監修の3G地図に各大名の様子を信長の野望の顔グラフィックのように盛り込んでいただけた演出と、草刈正雄さん演じる真田昌幸も第二作群雄伝で登場して以来変わらない総髪で髭のある昌幸として描かれてることが本当に感無量でした。
三谷幸喜さんは真田丸を描くに当たり、昌幸の描写を細部に渡って描くと草刈正雄さんにお伝えされていたそうで、それが却って良かったのかと思えます。

『では各々方、抜かりなく』

長谷寺殿一翁千雪大居士 享年65

曾根昌世と共に信玄の両眼と言われ、三成からは表裏比興の者と評された戦国随一の驍将は、亡君への敬慕と望郷の念を胸に抱きながら枕頭に現れた『御館様』率いる武田騎馬隊に身を投じてその波乱に満ち満ちた生涯を終えました。

駒の嘶き、入り混じる蹄音…
真田安房守としてではなく、信玄の奥近習を勤め、上杉、北条、徳川らと戦っていた武藤喜兵衛として騎馬隊に加わることで昌幸の願いは満たされたのでしょう。

戒名にある『長谷寺』というのは、昌幸の故郷である上田(現上田市真田町 長)にある曹洞宗の寺院です。
1547年に昌幸の父である一徳斎幸隆が建てた真田家菩提寺と言われており、昌幸の長男信之が1622年に信濃松代に移封された時も、6世が松代に同行し読み方は同じチョウコクジ(長国寺)を松代にて開きました。
因みに、この戒名は事前に位牌を昌幸が準備していたものを、高野山における真田家の宿坊である蓮華定院に納めてられていたのだそうです。


さて本日最後は、お初天神こと露天神社 です。
こちらは上古、この地がまだ大坂の海に浮かぶ島(曾根洲)であった頃、住吉須牟地曽根ノ神を祀っていたのだそうです。
やがて島は徐々に埋め立てられ陸続きとなり曾根崎となりました。
また、菅原道真が太宰府へ遷任される前に立ち寄り、
『露とちる 涙に袖は朽ちにけり 都のことを思い出づれば』
と都を偲びの一首詠んだことから、露天神社という名になったとも伝わります。
また、1703年に堂島新地の遊女であるお初と醤油商平野屋の手代である徳兵衛が露天神の森で心中した話を題材にした、近松門左衛門の人形浄瑠璃『曽根崎心中』が爆発的な評判となり参詣者が後を絶ちませんでしたが、当時は広大な敷地を誇った神域は太平洋戦争において焼失してしまい、現在の規模となってしまったのだそうです。

露天神社