本日も、禅寺一斉拝観で京都に来ました。
まずは、本日から3日間だけ公開の、妙心寺塔頭慧照院 です。
徳川家康の次男で越前北庄67万石を治める結城秀康の長男で若くしてその後を継いだ2代藩主参議忠直が幕命で隠居させられたことから、1623年に越後高田より弟忠昌が3代藩主として入封しました。
忠昌の正室で浅野幸長の息女花姫が同年に亡くなっていて、その菩提所として創建されたのが当院です。
当初は花姫の号である黄梅院殿に因んで、黄梅院と称し別の場所にありました。
寺運衰えるも妙心寺291世大春元貞が1706年頃に再興し、慧照院と改められました。
妙心寺の寺域から道路を挟んでおり、拝観についても樹齢120年の五色散椿の開花時期にあわせて、予約拝観のみ受け付けられている寺院で今までご縁がありませんでしたが、漸く今回伺うことができました。
入口近くに咲く石楠花に出迎えていただき、奥へ進むと拝観させていただけます。
五色椿は見頃が過ぎていたそうですが、好天に恵まれたのでゆるりとさせていただきました。

観世音菩薩


さて次は同じく、妙心寺塔頭大心院 です。
特別拝観されている大法院さまを大心院さまとすっかり勘違いしていました。
当初のリストには大心院さまも載っていたのだけどなぁ…。
管領細川政元が1492年に建てた塔頭で、現在は宿坊もされておられます。

雲自去来(はくうんおのずからきょらいす)


大雄院さまも伺おうと思いましたが、金土日祝のみの公開とのことですのでまた後日にして、続いて大徳寺へと向かいました。

こちらでは、法堂や様々な塔頭が公開されていましたが、今回は未だ伺っていない、大徳寺塔頭玉林院 へと向かいました。
皇室、足利将軍家、細川晴元、三好長慶などの診療にあたった曲直瀬道三は、1567年に月山富田城の尼子義久を攻略中の毛利元就を診療し、毛利氏領国内に曲真瀬流医術を波及させました。
道三は妹の子である玄朔を養子とし、玄朔は弟弟子の養庵に自らの娘を娶せ家督を継がせ、養庵は養安、そして正琳と名を改め、皇室、宇喜多秀家正室豪姫などの病を治し、江戸幕府奥医師の養安院家の始祖となりました。
正琳は道三を供養するために1603年に妙心寺内に正琳庵を大徳寺142世月岑宗印を開基として建立しました。
1609年に焼失しますが1621年の再興時に、正琳の琳の字を、玉と林に分けて玉林院と改められました。
また1742年には、豪商鴻池了瑛が始祖を弔う為に位牌堂である南明庵を建て、その際茶道において師事をした表千家7代目の如心斎の提案により茶室の蓑庵と霞床席も共に建てられ、現在ではこの三棟が重要文化財に指定されています。

この鴻池了瑛という人物は近江佐々木氏一党である尼子氏の家臣で、山陰の麒麟児との異名をとった山中鹿之介幸盛の来孫(5世後)です。
鹿之助の主家である尼子家が当主晴久の卒去後凋落し、その子義久の時に居城であった月山富田城を毛利家に明け渡し滅びます。
鹿之助は尼子家再興を夢見ながら亡くなりますが、その長男である幸元は江戸時代になり摂津伊丹にて名を鴻池直文と変えて清酒を開発し酒造業を始めました。
幸元は沢山の男子に恵まれましたが、大坂今橋に居を移した八男正成が酒造業から両替商に転じ鴻池善右衛門として江戸時代を通じ随一の大名貸へと変貌します。
後に両替商である善右衛門家の11代幸冨は1877年に第十三国立銀行を設立し、鴻池銀行を経て合併し三和銀行となり現在の東京三菱UFJ銀行となっていて、鴻池銀行本店の場所は、現在の三菱東京UFJ銀行大阪営業部として受け継がれています。
月山富田城を巡って、攻め滅ぼした側の診療をした医師に繋がる者が開いたお寺を、攻め滅ぼされた側に繋がる者が菩提寺としたというのも歴史の不思議ですね。
こちらは、大徳寺内でも最も広い塔頭であると言われており、堂内には各部屋ごとに狩野派の襖絵が飾られるなどとても格式の高さを感じさせます。
庭には少し時季が早い牡丹の花が咲き、真ん中に雄渾な赤松が植わっており、こちらでもお庭を眺めゆっくりとさせていただきました。

迦牟尼佛


本日のランチは久方振りに 阿古屋茶屋 にしました。最近、御朱印を戴き始めた京都に出向く事が多く、原点回帰の意味も込めてこちらのお店を選びました。平日にも関わらず相変わらずの人気振りで暫し待ちましたが、並んでも食べたい色鮮やかな京漬け物をたくさんいただきました。

駐車場のほど近くにある、高台寺天満宮 が賑やかになっていたのでよくよく見ると、御朱印を始められたようで戴いてみました。
こちらは北政所が高台寺を創建した際に、北野天満宮ではなく綱敷天満宮から勧請して高台寺の鎮守社としたのが始まりなのだそうです。