本日もまたまた京都です。
4月12日から、禅寺一斉拝観が始まっていてその一環で伺いました。
まずは、南禅寺塔頭南禅院 です。
南禅寺は2012年11月27日に訪問して以来二度目となります。
この場所には元々第88代後嵯峨帝が1264年に造営した禅林寺殿という離宮がありました。
その名は、南禅寺の北に位置する禅林寺に由来しており、こちらで第89代亀山上皇が1289年に出家して法皇となられますが、その持仏堂があった離宮を南禅院と称し、現在の塔頭南禅院の前身となっています。
その後、1291年に亀山法皇は禅林寺殿を寄進し、無関普門を開山として龍安山禅林禅寺としますが、卒後、2世規庵祖円により1299年頃に完成を見て、太平興国南禅禅寺と改められました。

鎌倉時代においては詳しくわかっていませんが、南禅寺は後醍醐帝により五山の一とされました。
ところが将軍家菩提寺として開いた相国寺を五山の一としたい室町3代将軍足利義満により五山制度を改め、南禅寺は五山の上として全ての禅林の最高位とした代わりに五山を京都と鎌倉に各々割り振りました。
1467年の、京都市内を焼いた応仁の乱によって殆どの伽藍が消失したまま再建もままなりませんでしたが、1605年に南禅寺270世として金地院崇伝が入り、徳川家康に招かれ幕政に参画する一方、漸く復興も正式に始まりました。
崇伝はキリスト教の禁止、寺院諸法度・武家諸法度・禁中並公家諸法度案の起草をするという江戸260年の土台を策定したことから黒衣の宰相としても知られ、それらの功により1618年に江戸2代将軍秀忠より江戸城北の丸に約2000坪の土地を拝領し金地院の建立が許され、翌1619年に国内の臨済宗僧の人事を統括する僧録となって以後は、金地院の住持が兼務する慣例となり金地僧録と称され幕末まで続きました。
今回、金地院や塔頭の天授院、光雲寺には伺えず、水路閣を見上げ階段を上がり南禅院に伺いました。
方丈は、1703年に5代綱吉の母である桂昌院の寄進によって再建されました。
内陣中央には重要文化財である亀山法皇御木造が安置されていました。
庭園は亀山法皇の作庭であると伝わる池泉回遊式庭園で、京都の三名勝史跡庭園の一つに指定されています。
日頃は静かに拝観できる庭園なのだそうですが、沢山の方が来られていて足早に出てしまいました。
なお、御朱印は本坊でいただけました。

水路閣御朱印帖


利益衆生


次に向かったのは、華頂山知恩院 です。
1597年に、秀忠の長女として千姫は誕生し、7歳で豊臣秀頼と政略結婚により大坂に入ります。
1666年に70歳で亡くなりますが、知恩院37世導師知鑑により葬儀が行なわれ、知恩院の宝塔にも分骨され、戒名は号と同じく天樹院殿栄譽源法松山禅定尼と付けられました。
今年は知る人ぞ知る、知恩院に縁有る千姫の没後350年忌にあたるそうです。

千姫没後三百五十年 天樹院


お昼の時間になり、たもん庵 でとろろうどんをいただきました。外は4月と思えぬ暑さだったので、コシの強い冷たいうどんがさっぱりして美味しかったです。

本日最後は、小塩山十輪寺 です。
本来は業平桜が咲き乱れる頃にお伺いしたかったのですが、人事異動によりそれも叶いませんでした。
ま、これも、ご縁なのでしょう。
折しもこの日は、ご縁日の御朱印を授与していただけるとのことで、このあたり西の岡の名産である筍をあしらった御朱印をいただけました。

延命殿


延命殿