本日は、京の冬の旅の続きということで今回未踏の妙心寺へと向かいました。
まずは境内の南東に位置する 塔頭玉鳳院 に向かいました。
この地が妙心寺発祥の地であると言われており、なんと住所が右京区花園妙心寺町1と思わず歴史的事実もなしに納得してしまいます(笑)
この玉鳳院はまたの名を玉鳳禅宮と言って、法皇となった花園帝の起居のために改めて1342年に創建された最も古く由緒のある寺院と伝わります。
関山慧玄(無相大師)に師事し教えを請うていた法皇でしたが、病床の法皇は慧玄に対し往年の御宸翰を認め、1348年に亡くなります。
その慧玄も1360年に、坐脱立亡の語義の如く、玉鳳院内の井戸風水泉で旅装にて後事を託していた時に傍の松にもたれたまま入寂され、微笑庵に葬られました。
その後玉鳳院は戦乱によって焼失し、東福寺より1538年に現在の開山堂が移築造立され、更に1656年に方丈が建てられました。
庫裡から入り方丈へ進むと、各々襖絵が狩野永真(安信)筆の麒麟図、竜図、山水図、上段の間に狩野洞雲(益信)筆の秋雲図とあり、中央正面の間にかかる玉鳳禅宮の扁額は102代御花園帝御宸筆であり、その奥に花園法皇の法体尊像が祀られていました。
方丈から廊下で繋がる開山堂へと向かいます。
開山堂は上記の通り元々は慧玄を祀る微笑庵がベースとなっていて、移築されてはいますが山内で最古の建物として重要文化財指定を受けています。
ちなみに、渡廊下の北には祥雲院殿霊屋が建っています。
1591年、太閤に待望の長男であった棄丸(鶴松)が3才で亡くなります。
太閤は髻を切り、他の諸大名も剃髪して喪に服したそうです。
棄丸の傅役であった石川伊賀守光重は妙心寺58世の南化玄興に心服していたことから、葬儀は妙心寺で行われた後に玉鳳院に葬られ、現在も霊廟は祥雲院殿霊屋として現存しています。
太閤は供養のために棄丸の戒名祥雲院殿玉厳麟公神童に因み祥雲寺という臨済宗の寺院を南化玄興を開山とし建てますが、豊臣家が滅んだ後に太閤が根来攻めにより焦土にした新義真言宗の再興が徳川家康によって成され、祥雲寺は破却の後、智積院にその寺地は与えられ現在に至ります。
2世住持であった妙心寺105世海山元珠は棄丸の遺骨を背負い妙心寺に戻ったそうで、その後自坊の亀仙庵を家康への抵抗の意味を込めて雲祥院と改め現在に至ります。

なんとも歴史の詰まった満腹感の高い内容でした。

花園法皇


無相大師


続いて、塔頭霊雲院 へ伺いました。
1526年に妙心寺25世大休宗休が、12世特芳禅傑を開祖として創建した寺院です。
特芳禅傑は妙心寺の雪江宗深の法を嗣ぐ四人の一人で、妙心寺四派である霊雲派の祖となります。
方丈には、妙心寺派第26代管長で霊雲院ご住職でもあった山田無文師による『京の冬の旅』の題字が公開されていました。
この題字は1981年の第15回から現在の第50回まで使われているそうで、快く引き受けてお書きになられたのだそうです。
奥まで行くと、1532年に建てられた切妻柿葺の書院(重要文化財)が現存しています。
奥にはこちらに度々参禅された第105代後奈良帝の御座所も現存していました。

大慈大悲観世音菩薩


近くまで来たからって事で、本日のランチも ジャンボ にしました。
今日も相変わらずの行列です。それでも食べたくなる味ですね。今回は焼きそばをジャンボで注文。待つ事数分、鉄板いっぱいに氷山のようにそびえるソバとキャベツや豚肉が、またまた店員さんの鮮やかな手捌きで食欲そそる焼きそばに変わってゆきました。お好み焼きミックスも普通サイズで一緒に注文して、美味しく完食いたしました。