本日は大阪に向かいました。
毎年、一月恒例の生国魂神社の干支御朱印をいただきに伺おうと思っていました。
ところが大阪に向かう途上で、毎朝楽しみにしている〖あさが来た〗を拝見していると、ディーンフジオカさん演じる五代友厚から渾身の説得を受けて、働こうと思ったことが無いと言ってた玉木宏さん演じる新次郎さんが、遂に社長をお引き受けになられてしまいましたではありませんか。
あまりの嬉しさに加野屋の皆さんが御霊神社にお詣りに行くというシーンがありました。
そこで行き先を変更し、御霊神社 へ伺うことにしました(笑)
旧摂津国津村郷の産土神として崇められてきたそうて、かつて大阪湾のぬかるんだ湾口を差し圓江(つぶらえ)と呼び、7世紀末に祀られたのが始まりで、やがて津村となったのだそうです。
太閤の時世になると商都大坂として共に栄え、中でも石州津和野の亀井茲矩の寄進により1594年に圓江から現在地に遷座しました。
江戸時代に入り御霊神社と改称し、神宮寺が大坂三十三観音霊場の結願札所でありました。
江戸期の大坂を牛耳った豪商淀屋の没落後に堂島米市場の中心となった加島屋広岡家(あさが来た作中の加野屋)は加島銀行(頭取広岡正秋=白岡栄三郎、昭和恐慌により廃業)、真宗生命(門徒総代の広岡家が再興し現大同生命で初代社長広岡正秋)、尼崎紡績(現ユニチカで初代社長広岡信五郎=白岡新次郎)を後に育てた豪商で土佐堀(現、西区江戸掘大同生命本社ビル敷地内)に店を構えていました。
初回で出てきた日の出女子大学こそが、 成瀬仁蔵の説く女子教育論に感銘を受けて加島グループのみならず生家の三井家に土地の提供を依頼して設立した日本女子大学で、その有力支援者こそが広岡浅子(=白岡あさ)なのです。

太閤の頃より現在に至るまで商家から大切にされてこられたようで、取り分け加島屋からの崇敬も作中の通り篤かったのだと思います。

御霊神社


さて次は道修町にある、少彦名神社 へ向かいました。
道修町は太閤統治時代よりクスリの取引場(現代社会では聞こえが悪いですね)として栄えていました。
その名前の由来は、道修寺というお寺があったからとも、北山道修という薬学者がいたからだとも言われています。
現代の道修町は往時の名残が色濃く、通りの両側には鳥居薬品、日本バルク薬品、北垣薬品、塩野義製薬、カイゲンファーマ、和光純薬工業、武田薬品工業、日本粉末薬品、丸善薬品産業、片山化学工業、小城製薬、大日本住友製薬、日本新薬、米山薬品工業、ニプロ、小野薬品…と多くの製薬会社や薬品会社のオフィスが犇めいています。
江戸時代に入り、幕府は道修町に集まる薬種屋124軒に唐薬種や和薬種の検査をして全国へ売り捌く特権を与えました。 
彼らはこの難しい役務をこなすために神仏の加護を得ようと、1780年に京都の五條天神社から少彦名命の分霊を仲間の寄合所(現社殿地)に勧請し、既に祀られていた神農炎帝王とともにお祀りしたのが始まりだそうです。
一見神社と解りにくいですが、入り口にある銅製の大きな虎が目印。こちらでは張子の虎(神虎)の御守りも有名です。境内にはたくさんの神農さんのお墨付きの医薬品が陳列されていました。

少彦名神社


次に、坐摩(いかすり)神社 へ向かいました。
神功皇后が外征より御帰還の折、淀川南岸の大江、田蓑島(後の渡辺、現在の坐摩神社行宮がある天満橋西方、国府が転訛したといわれる石町)に坐摩大神を奉祀されたのが始まりとされています。
この坐摩大神は、初代神武帝の御世から宮城の守護神として祀られてきたそうで、現代においても宮中三殿内において坐摩巫祭神五座として祀られています。
延喜式においても攝津國西成郡唯一の大社と記されていますが、一時期住吉大社の末に繋がったことから摂津一宮を称されています。
どこから読んでもザマである坐摩(いかすり)の語源ですが、居所知(いかしり)であるとされ、居所を守る神様であると伝わりますが、太閤の大坂城築城のために居所を守ることができなくなり1582年に現在地への替地を命ぜられ移転を余儀なくされます。
第二次大戦の戦災で社殿は焼失しますが、1936年に鉄筋コンクリートで往時の姿で再現されました

因みに、宮司は代々世襲で現在で58代目なのだそうですが、元々は天津彦根根命に繋がる凡河内国造が祖と言われ、元宮のあった地名である渡辺を称し広がったことから全国の渡辺姓のルーツであるとされています。


坐摩神社


また当社境内には、火防陶器神社 があります。
江戸時代初期に建てられた瀬戸物町の傍にあった火防の愛宕勝軍地蔵かその始まりであるそうで、明治の神仏分離令を契機に1872年、大阪府知事の尽力で火防陶器神社として再出発を果たします。
1906年に市電を通す計画が発案され坐摩神社境内に移転、第二次大戦の戦火で焼失後、1971年に現在の社殿が再建されました。

火除陶器神社


次いで近くの、難波神社 へ向かいました。
難波堀江を開削し難波高津宮に都を置いた父仁徳帝を偲んで、反正帝が河内柴籬宮に遷った先の松原に建てたと言われています。
934年朱雀帝の御代に平野郷に遷され、さらに太閤の大阪城築城に伴い現在地(当時は上難波)に遷され、その後、北御堂、南御堂、御霊神社、坐摩神社の順に移転し、上難波仁徳天皇宮と改めてます。
現在の難波神社へは1875年に改められたのだそうです。
こちらも大阪大空襲で鳥居と玉垣を残して焼けてしまい、1974年に再建され今に至ります。

またこちらは、今から約4年前、橋下徹大阪市長による補助金カット問題で騒動になった文楽の歴史的な史跡でもあります。
淡路の初代植村文楽軒が演芸小屋を大坂高津橋南詰に建てて興行したのが始まりとされる文楽ですが、1810年に二代目文楽軒が当社境内に移して人形浄瑠璃小屋を開き、いなりの芝居として親しまれたのだそうで、境内の東門の外に稲荷社文楽座跡碑がありました。
境内には樹齢400年以上の楠の大樹があり大阪市指定保存樹第一号となっています。触れるとパワーを戴ける御神木と言われています。

こちらの御神紋が花菖蒲なので、6月8日に菖蒲神事が行われることから、女性の神職がおられれば御朱印に紫の可愛らしい菖蒲が添えられるようです。

難波神社



さて次に伺ったのは、サムハラ神社 です。
この不思議な言葉である『サムハラ』の語源はサンスクリット語のsaṃvara(三跋羅)に由来するといい、仏の定めた戒律という意味、また、同じくサンスクリット語のShambalahに由来するともいい、幸福を維持するものなどの意味があるそうです。
一方、神社で頂いた由来を拝見すると、『サムハラ』とは神の御詞で、天地開闢に高天原に出現された造化三神である天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神の三神を総じてサムハラの大神と称するのだそうです。
とても壮大な語源を持つ一方で、当社の創建は岡山県苫田郡加茂村の古詞にて祀られていたそうで、明治時代の田中富三郎という方が度重なる戦乱から無事に生還し、それが故郷の古詞に祀られているサムハラ様の神徳であるということから、岡山の古詞を1946年に再興、1950年に豊国神社横に竣工し1961年に現在地に移転したのだそうです。
「サムハラ」がカタカナ表記なのは、漢字で表すことが出来ないからです。この四文字は、そもそも漢字ではなく“神字”とのこと。どのような字なのかは御朱印の写真でご確認ください。
ちなみに、サムハラ神社の指輪形御守(御神環)が大層人気があり入手困難なのだそうで、それは残念ながら入手できませんでした…。
裏側に「サムハラ」の四文字が刻まれたこの指輪は、入ってきてもすぐに売り切れてしまう人気振りで、予約もできないので、入手できるかどうかはこれも出逢いですね。

サムハラ神社


その後、天王寺方面へ向かいまして、生國魂神社 へ伺いました。
睦月も終わりかけということでしたが、まだまだ来られる方はたくさんおられました。

干支朱印