次に、5月の特別拝観が終わってしまった、れんじょう寺(王蓮王城寺) へ伺ってみました。
この寺院は元々、聖武帝の勅願で行基が創建したといわれています。
紀氏の氏寺として栄えたので、別名「紀寺」と呼ばれていて、当地に移転する前は飛鳥に建てられていた広大な寺院であったそうで、現在そちらは紀寺跡と言われているそうです。
こちらの御本尊である女人裸形阿弥陀仏が五月のみの特別公開だったのですが、残念ながらその時期は伺えなかったのです。(泣)
また来年の五月に再挑戦したいと思います。

御朱印は左手の庫裏にて戴けました。

白色阿弥陀佛


続いて隣接している、崇道天皇社 へと伺いました。
こちらは、その名の通り806年に崇道天皇と諡号された早良親王の祟りを畏れて創建された神社なのです。
810年には富士山まで噴火してしまい、祟りを実感したことから同じような趣旨の祭礼が行われたのだそうです。
また、紀寺たる王蓮王城寺の鎮守としても祀られました。
こちらの御本殿は重要文化財にもしていされていて、1623年に春日大社の若宮本殿を移築したものなのだそうです

御朱印は社務所にてお声掛けしました。

崇道天皇社


さて、次に以前から気になっていた、法輪山興善寺 へと再訪しました。
前回は元興寺の辺りを廻っていた時に飛び込みでお伺いしたのですが、こちらの寺院は圓光大師の巡拝の栞という書籍において、圓光大師の御霊跡として掲載されているお寺であることを後に知りました。
御本尊の重要文化財阿弥陀如来の胎内から法然上人750年大遠忌の翌年に自筆の文書などが発見されるなど上人にとても縁のあるお寺です。

前回戴けた御朱印と異なるタイプがあるそうで、庫裏にてお声掛けいたしました。

法然上人御真筆胎内蔵阿弥陀如来本尊を


さて、丁度昼時になったのでお昼を一勇翔壮に寄らせてもらおうと、ちょっと前からとても楽しみにしていたのですが、体調調えて臨んでみたら、まさかの店休日です。
がっくり意気消沈して、しばし彷徨った後、東大寺近くにある故河島英五さんのご長女あみるさんが2003年に開店されオーナーを務める TEN.TEN.CAFE でいただきました。

奈良のブランド食材を使った、大和牛の牛重膳と太陽卵のふわとろオムライスを注文。今日はガッツリ食べる予定だったので、量的にはちょっと物足りなかったかもしれません。

続いては、ずーっとひたすら南に進み天理市に突入しました。
以前からそのスケールの大きさを見てみたいと思っていたので、思い切って、天理教教会本部 へと伺ってみました。
南の入り口より入ってみたのですが、鳥居のようなゲートを潜ると、中心となる神殿を四方で囲んでいる礼拝場の内、南の礼拝場が真正面に現れます。
この神殿の中心には甘露台という場所があり、天から雫が落ちてくる場所なのだそうです。
この南の礼拝場は天理教徒でなくとも立入は自由、24時間年中無休となっています。
また、神殿北側には教祖殿があり、教祖中山みきが高野山奥之院におられる弘法大師のように今も配膳されていて、肉体は滅びても人々の暮らしを見守りながら生きていると考えられています。
この南北の礼拝場は明治時代に建てられていますが、東西の礼拝場が天理教立教の147年に当たる1984年にそれぞれ1,117畳の広さ、総木曾檜づくりにて建てられました。

まぁ兎に角広大で荘厳でした。
御朱印はお世話係の方に尋ねて戴けました。

親神天理王命


北上してくると、大和北部八十八所霊場第62番の山村の、一心山極楽寺 のあたりを通りました。
あまり時間もなかったのですが、折角の機会なので現在は廃寺ということで難易度が高かったのですが、まずはお寺を探してみました。
住宅地の中に不自然な空き地が現れて隣に公民館が建っていて、そこの玄関に 山村町公民館 浄土宗 一心山 極楽寺 弘法大師大和北部八十八ヶ所 当寺は七十二番 なる木札が掲げられていました。
その横に連絡先がありましたので、お近くの方ではありましたがお声掛けさせていただきましたところ公民館を開けてくださいました。
在所の方も観音様は見たことないからということで共に『拝観』となりました。
日頃は山村の方々の集会所として使われているそうですが、元々は他の寺院が廃寺になり山村の篤志家が土地を譲って開いて、廃寺となったお寺から寺仏などを継承した寺院なのだそうです。
現在管理されている方によると、区長などを務めた後、最後にされる役が極楽寺の管理なのだそうで、大変名誉なことなのだと思いました。

こちらは、
大和北部八十八所霊場第62番札所
で御朱印は公民館にて戴けました。

大和北部八十八所霊場第62番 本尊阿弥陀如来