次に、壇場伽藍 へ向かいました。
眼前に現れたのは、1843年の天保大火以降170年ぶりに開創1200年記念大法会に合わせて開眼法会が行われ、再建された色鮮やかな五間二階の中門です。
その中門を潜ると出現するのが金堂です。
何度も焼失再建を繰り返してきたようですが、萬延再建より66年後の1926年に金堂内部からの失火にて、開創以来秘仏であった御本尊、六角経蔵、孔雀堂、中門なども悉く焼失してしまいます。
現在の金堂は、焼失の2年後に起工しますが惨事の教訓から木造仕上の純日本建築になっていますが基盤は、鉄骨鉄筋コンクリート構造で1932年に完成、1934年4月2日に落慶しました。
また、金堂御本尊に於いては秘仏であり明治期の調査開扉にも応じなかった為に公的に容姿は詳らかになっておらず、御尊容は薬師如来、阿しゅく如来、薬師阿しゅく同体と諸説がありますが高野山では御本尊は薬師如来と考えてこられたそうです。
しかし、上記のように火災が発生し御本尊の再建を考えた時に、従前の解釈通り薬師如来として、また御大師様は唐より『不動明王』の経典を持ち帰った事実があり、また、阿しゅく如来は梵語でアクショービヤと言い不動と訳されることから阿しゅく如来として、80歳前後であった大仏師高村光雲の手により高野山からの7つの条件を乗り越えながら1931年12月に完成、翌年8月1日に安置されたそうです。(金堂内の表示は阿しゅく如来となっていますが、ホームページでの表現は薬師如来となっていて結局のところ、判然としません。)
なお、1934年に光雲は、高齢につき完成を不安視したところ高野山側が師の長命を祈願することで用命を受けたことや、飛騨の檜材の使用が一般的であったにも関わらず高野山の檜材が意外に適し、後世にも伝える御本尊に塗色するにあたり一般的な絵材では不浄の怖れがある為に奥の院の土に着色しそれを御本尊に塗り込んだところ風格のある仕上がりになったことなどを語っています。

さて、その右手の奥に屹立しているのが根本大塔です。
高野山を開創時、金堂を中心にし、東西に多宝塔を配置するという構想があったと言われています。
東側に位置する多宝塔は時期をずらして落慶し、根本大塔と呼ばれていますが、焼失再建を繰り返しており金堂と同じく鉄骨鉄筋コンクリート構造で現在の大塔は1937年に完成しました。
胎蔵界の大日如来像と金剛界の四仏が配置され柱には十六大菩薩が描かれており、曼荼羅の世界が立体的に表現されています。
ちなみに左手には、重文指定で1834年再建の西塔があります。
東塔とは対照的に、金剛界の大日如来像と胎蔵界の四仏を安置されています。
東塔に比して少し小さい感じの作りになっています。

ちなみにこの壇場伽藍、期間中法会が行われているのですが、本日は嵯峨大覚寺による開創記念慶讃法会が行われており丁度バッティングしてしまい、法会の間は金堂内立入不可となる為、秘仏拝観が滞り凄まじい列を成していました。(ちなみに翌日だと室生寺の法会に加えて安倍首相が来られていたそうなので、より大変であったと思われます(^_^;)
辺りを拝観させていただき納経所にも伺いましたが、これまた凄まじい列で、並んで並んで並び倒した1日でした(;^_^A

慈光無窮 梵字バン 大日如来


誓願無比 梵字バイ 薬師如来



本日授かった御朱印の合計は15です。
今まで授かった御朱印の累計は1941です。
(うち、御詠歌の御朱印は174です)
(うち、御陵墓の御朱印は76です)