時間をかけた記事ほどいい記事だ。これは真ではない。たとえどれだけ時間をかけていようがいまいが、いい記事はいい記事なのだ。

それではいい記事とは何か。いい記事を決める判断材料を意識して書くことが必要なのだ。例えば読者が必要とする情報が盛り込まれている記事。これはいい記事と言えるだろう。わざわざ読者が情報機器に手を伸ばしてインターネットに来る。そして検索ののち、このブログに訪れる。何か知りたいことがあって訪れていることは明白であろう。その疑問は何か。それを解決するにはどうしたらいいか。それを考えて書いていく。その繰り返しにより、読者の必要な記事が書ける。

ここまで書いてきて、分からなくなった。インターネットにいる人々は千差万別。様々な人々がいる。その数も膨大である。必要なニーズというものは計り知れず、数を打てば当たるのではないか。そんな気がしてくる。要は何か問題を解決する記事を書けば人が集まるのだ。

そこで一番書きやすい方法を考えた。それは、自分が過去に検索したことの答えを記していくということだ。自分が過去に検索したことを求めてインターネット検索する人は必ず世界中のどこかでいる。その人々をターゲットにするのだ。もちろん自分が過去に知りたかったことなので、よく知っている。なおかつ、問題が明確にイメージできている。それを解決する手立てを書くのだ。

話がそれてしまった。しかし本題に戻る。記事をゆっくりと書いてしまうデメリットを考える。まず時間がかかる。単純に私の場合、ゆっくり文章のと論理的構造に気を配る。そうしった書き方の場合相当な時間がかかってしまう。1000文字を書くのに二時間かかることもざらだ。正直これだけ時間がかかると一つの記事を書くことに抵抗感が出てしまう。生産性の著しい低下だ。

そして、これが一番の問題だと考えることがある。それは、時間をかけて考えるゆえに、生の考えでなくなっているという点だ。実際に会話をしている自分を想像してみてほしい。長考することなくリラックスしている貴方だ。自分の思ったことを、気の合った仲間と話す。こういった時こそ、一人で長考しても出なかった答えがすんなりでることがある。そして何より貴方の本当の考えが出てくるものではないか。考えすぎることは、時に自分の意見に批判的になったりする。また建前が邪魔をして本音が隠されてしまう可能性が上がる。(これはあくまで主観的な意見)

それなら、話すスピードでタイピングすればいいではないか。そう考えたのだ。まさにこの記事を書く私の手は高速で動いている。話すときのスピードとは言わない。しかし少なくとも自分の考えを整然とするほどの余裕はない。このスピードで文字を書くことは手書きでは不可能であろう。そしてこれは私の中でとても新しい経験である。

こうして実際の思考スピードに迫るスピードで記事を書いていて、やはり気持ちよさがある。余計なことを考えないで言葉が残されていく快感。なにより厳選されていない言葉が残されていくので、文字数が早く稼げる。見ていても気持ちがいい。余計なことを考えて言葉少なになるより全然良いではないか。

これから、しばらくこの書き方を実践していこう。それで、生の言葉が残せるように。このブログが、自分が本当に言いたいことをすぐに述べられる場所にする。この記事の積み重ねは自分を見つめるためのいい作用を残す。そう期待している。