今年は、年号が平成から令和にかわり、多くの皇位継承式典がとり行われました。

式典のひとつ、大嘗祭は、応仁の乱の後に何百年も途絶えていたのですが、桜町天皇の即位の時(1736年)に復活し、現在まで続いています。その復活にあたり、儀式に使う衣装や道具について宮中で議論され、熊野(新宮)産のヤマアイで染めた小忌衣(おみごろも)が採用されたと記されています。
山藍 此の辺りに自生する山草なり。熊野社家にては、往古より此の草を以て祭服の紋様を摺染にす。これを青摺の衣といふ。此の事後に禁中に聞こえ、元文三年の大嘗会の節この地の山藍を採用ひられたる由、山藍の事中古其の伝を失ひて異説多かりしも、前記元文年間その道にたづさはれる諸公卿等の人々によって評議一決、時の関白一条兼香公より国君に請ひ得て、熊野山の山藍を以て此の大典に用ひらるべき小忌の青摺を作らる、故実の復古またよろこばしき限りと云はん。(『紀伊名所図会』より)

古事記にも登場する「青摺の衣(あおずりのころも)」は、どうやら平安時代には庶民の着用が禁じられ、祭事の浄衣として用いられたそうです。そして、大嘗祭のたびに、南紀熊野ほか、神域のヤマアイが献上されたのです。

△青摺の衣を着けたる東遊舞人の図
もろふりの 山藍の袖に あらはれて
いまをむかしに かへりつるかな  為恭(『紀伊名所図会』より)


さて、ヤマアイ(山藍、Mercurialis leiocarpa)は、中国からアイ(藍、Persicaria tinctoria)が伝わる前から、国内で染め物に使われていたとされる植物です。名前の由来は、山で自生しているアイ、といったところでしょうか。万葉集や源氏物語などの文学作品にも登場します。
しな照る 片足羽川の さ丹塗りの 大橋の上ゆ 紅の 赤裳裾引き 山藍もち 摺れる衣着て ただひとり い渡らす児は 若草の つまかあるらむ(『万葉集』巻9-1742)
山藍に摺れる竹の節は、松の緑に見えまがひ、插頭の色々は、秋の草に異なるけぢめ分かれで、何ごとにも目のみまがひいろふ。(『源氏物語』若菜下)

図会(上図)の紋様は白黒ですが、本物は一体どんな色だったのでしょうか。藍色ではなく緑色だったという説が有力のようですが、いちど自分の手で染めてみたいものです。

〇 参考文献
[1] 紀伊名所図会 第四巻 (高市志友 編、歴史図書社)
[2] ものと人間の文化史 藍 (竹内淳子 著、法政大学出版局)