九州の邪馬台国関連(弥生時代)の遺跡を歩く(Ⅴ) | やべちゃんのブログ

Ⅳの続き

3)甘木、朝倉地区(福岡県朝倉市)は九州最大の河川筑後川の中流域、右岸で、平塚添遺跡(弥生中期の環濠集落)周辺を中心に弥生時代の遺跡が多くある。又奈良県大和盆地の南部と筑後川北岸部(鳥栖、甘木を中心とした所)の地名が三輪山(みのやま)の大神(おおみわ)神社を中心に20か所以上で一致している。これは、北九州の 部族が大和に移り政権を作った証しであるとの説もある。図6に両方の地図、地名を示します。

6 北九州と大和地方の地名の一致(20か所以上)

4)九州の環濠集落分布を図7に、人口(遺跡)密度を図8に示します。環濠集落は渡来人中心の集落で、敵の攻撃に備えるため作られ、やがて国に発展していった。九州だけで約50の国があり、北部九州だけでも40以上あった。この状況を図7に示します。

  図7九州の環濠集落(弥生時代)

8に弥生時代、九州地方の人口(遺跡)分示し

ます。

   図8弥生時代の九州地方の人口(遺跡)分布

5)邪馬台国時代の遺物の出土状況を図9に示します。赤線の左側は甕棺地域を表しています。弥生時代中期の邪馬台国時代は旧 甕棺地域が墓式石棺に代わっていく。この時代の土器は庄内式土器で、これと一緒に出る鏡が「長子孫銘内行花文鏡」などである。この鏡は北九州から多く出土する。その鏡と一緒に出た鉄の剣刃、鉄器、勾玉等の出土品分布が図9です。この図で、4か所の中心的な所があり、伊都島半島の平原遺跡(鏡が多く出土)、博多付近、朝倉市付近、吉野ケ里付近となる。

     図9邪馬台国時代の遺物の出土状況

 

10は邪馬台国時代の鉄器の出土分布を示します。ここも4か所の中心地があり、北九州市付近、京都(みやこ)郡行橋付近、遠賀川上流部付近(嘉穂)、鞍手郡(宗像東)付近となる。なお、北九州市や遠賀川流域に投馬国(とうまこく、出雲系か)があったと考えられ、この地域には箱式石棺があったところで、甕棺が行われていなっかた所である。

10邪馬台国時代の鉄器出土分布

 ●印は剣、刀、刀子、矛、▲印は鏃、○印は、その他の鉄)

以上の状況をふまえ、この時代の出雲と大和(奈良)の関系を

分析する事により、邪馬台国がどこにあったかがはっきりしく

ると思われます。

 これについては次回、近いうちに「最終レポート」で報告ま

す。

 こように邪馬台国時代(弥生時代中期)までは北九州の渡来人を中心に人口が急増し、文化の中心地であったと思われます。      以上