遅れて来た哲学者ちゃありぃのスタンス...2 | ちゃありぃのブログ

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偏屈なオヤジが、サブカル、音楽、文学、哲学、社会や時事ネタ、そして、自らを紙クズ同然の脆弱な存在である事を標榜し、さらに人として男として研鑚していく熱い男達の集まり、クズ会の話をしていきます。苦笑

どうも。遅れて来た哲学者、ちゃありぃです。

アジア杯、日本は順当に予選をトップ通過で、今日、UAEと対戦しますね。
韓国、オーストラリアも手堅く決勝トーナメント初戦を突破しまして。ベスト4進出しましたね。
まぁ、日本の勝ちを信じてますが...

退屈かもしませんが 私の哲学的スタンスの続きを話したいと思います。

前回のブログにて、本能に従うだけの動物とは違い、それを抑制し、合理的な文化を構築する存在が 理性を持つ人間である、
という旨を人間は標榜して歴史を築いてきました。

そんな人類史の中での、二十世紀に入り、二度の世界大戦、共産主義国家の誕生と崩壊は前回述べました。

さらに合理主義的な世界の流れの中での、
最も確実な学問とされて来た、数学基礎論における、ラッセルの集合論のパラドックス、

因果律にの元に成り立って来たと思われた、物理学における、量子力学における不確定性原理、

文明人を標榜する、欧州での非人道的なユーゴ内線、

精神分析学や分析心理学における、無意識というものの、言葉による表現の限界など...

理性を有する合理的な存在としての人間や文化を揺るがす事柄だったかと思います。

第二大戦後の二大潮流として、共産主義国家のマルクス主義と、主にフランスで主流となった実存主義、実存哲学の時代でした。

前回述べた通り、共産主義国家の盟主とも言うべきソ連が崩壊し、東欧諸国にも民主化へと傾倒して行きました。

実存主義、実存哲学は 熱い血と身体を持った人間と、個々人の考えや思いを尊重するものだったのかなと考えてます。

そして、カミュの異邦人に代表される作品における、合理主義への警鐘とも言うべき、不条理の存在。事故で若くして早世してしまった、カミュの死は、今でも悔やまれます。

サルトルとボーボワールも有名ですよね。
事実婚の関係でしたが、それは ある種の
結婚という社会制度への抵抗というか、反抗というか...そんな風に私は考えてます。

まぁ、フランスを始め欧州では 事実婚でも法的には結婚とそんなに遜色無いものですからね。

その後、実存主義からソシュールやレヴィ = ストロースの構造主義を経て ポストモダンの時代となりましたね。

代表的な人物として、デリダ、フーコー、ドゥルーズ、ガタリ、バルト等...

欧州哲学の、異端児⁈とも言うべきニーチェ、フロイト、ハイデガーの再評価。

世界の真理を追求するという、~大物語~の放棄、諦観...

存在論から認識論が主流に.., 

彼らが二百年、三百年、せめて百年前に生まれてたら、また違った思考を模索してたかと思います。

私も恐縮では ありますが同様のスタンスです。

私は言葉に対して愛情を持ってます。

PCやケータイでの文章を否定はしません。現に私も 今、ブログを書いてますから 苦笑

でも、言葉と言葉の間、行間に表れる、筆者の魂というものを大事にしたいかなと
思ってるんですよ。文字にも人それぞれの個性というものが 表れますし...

それと世界や自然、内なる自然とも言うべき人間への過度の数字化にも危惧を抱いてます。

まぁ、以上述べた事は あくまで私の考えですから...

人それぞれ生きる事が真理なのかもしれないですね...