私は実存主義から自分のスタンスを定めて生きて来ました。 戦後、特にフランスで サルトル、ボーヴォワール、カミュらが、ソ連、中国の成立と共に当時世界的に流行していたマルクス主義の全体主義に対するアンチテーゼとして、個人主義、実存主義を標榜していました。 特にカミュの異邦人での主人公が、人を殺した理由について、「太陽が眩しかっから」と裁判で述べ、母親が亡くなっても一切感情を露わにしない事を人々は非難しました。
不条理を、えがいた人この作品について、人によって様々な受け取り方があると思います。
私は、人間は決して明るい光の様な合理主義だけの存在では無く、光があれば闇がある様に、
人間の持つ良くも悪くも非合理的な部分、 しいては、数字や言葉に還元出来無い存在を描きたかったかのかと解釈しています。フロイトから始まる人の精神の探求も、よく言われる事ですが無意識を意識的である言葉に還元する事に限界がありましたし、現代もまだ、人の光だけでなく闇を分析する事にも限界があるのも事実です。 かと言って、合理的で言葉や数字で構築された社会や法を侵す事を許す訳では無いです。 が、必ずそこから逸脱する存在が居るという事です。 法を侵さず、社会からポジティブに逸脱すれば、天才、奇才、と賞賛されますが、その逆は奇人、犯罪者となります。 社会や一般の人々からの逸脱、という点では両者は同類です。 私はこの両者の区別よりも、社会に生きる至極普通な一般の人々が、どちらにも逸脱する可能性がある事に危惧を感じてます。私自身もどちらにも逸脱する可能性は存在するのですから。 ネガティブな面ばかりを話して来ましたが、ポジティブに考えれば、人間には
生き方や表現等、あらゆる可能性を秘めた存在だと考えたいと思います。