槇村さとる『Do Da Dancin'!』第13巻 | 柔ら雨(やーらあみ)よ 欲(ぷ)さよ




 あらら、この第13巻で、槇村さとるさんのドゥダダンシン・ヴェネチア国際編は完結しちゃったんですね。あっけないっていうか、いや、さすがに決勝大会はこの第13巻で終わるのではなく、2巻分使って、ダンスの質までしっかり描き込んでほしかったなあ。出版をめぐる何か裏事情でもあったのでしょうか、ストーリーがばたばたと駆け足過ぎてしまい、じっくり楽しむまでには至りませんでしたね。

 でも、逆の意味で、こっちはこっちで参っちゃうなあと思うのが、ショパン・コンクールが始まってからの『ピアノの森』。こちらはコンクールの話が異常に長過ぎて、物語前半の作品空間の濃密性・求心性がもうどこかへすっかり飛んじゃってますよね。
 マンガのストーリーって、なんぼ何でも、コンクールで競い合う場面をあそこまで長く引っぱってよいものだとはぼくには思えないんだなあ。主人公たちが競い合うという関係は、結局のところ、現実をひどく平板化・単純化・抽象化してしまうので、勝ち負けの興味以外の部分の絵がひどくお寒くなってしまうんですね。
 『ピアノの森』は、純作品的な要請からではなく、まず間違いなく営業政策によって作品世界が悪影響をこうむっているのかなと思います。残念なことです。


 さて、本題に入って、われらが鯛ちゃんの決勝大会の演目は白鳥の湖なんですが、一体どんな演技だったのでしょう?









 3枚目の絵で、倉田真理のダンスパートナー、アントニオが、桜庭鯛子のダンスの本質を見事に語っていますね。
 かれによれば、「日本人が持ってる不思議な共感力、あれは真似できない。あれを見ると欧米人はぽかんとする。とても細やかで、やさしくて、なつかしい。何かを思い出しそうになって胸がつまる

 前回、第12巻の私の感想の中では、鯛ちゃんが目指しているのは「《共》を原理とするバレエ」だとコメントしました。
 上でアントニオの言う「日本人が持ってる不思議な共感力」というのも、鯛ちゃんが、《個》と《個》が見つめ合い手を取り合う踊りを踊ったのではなく、かのじょとダンスパートナーのミーシャが踊りを通して互いの《個》を超えてしまい、踊っている間にのみ双方の間で生じる相手への共感の空間において《個》から《共同態》に存在変容を遂げたふたりが、《共》のダンスを踊ったということを指していると見てよいでしょうね。

 でも! その《共》のダンスなるものがこの第13巻で、ミーシャとの間でしっかり踊られたのかというと、ぼくは、この絵の中に《共》のダンスを十分に見届けたという満足感はまだ得られていないんですね。
 観客の反応からは、西欧人の《個》のダンスとはきわめて異質な、日本人的な感性に導かれたダンスが踊られたことがわかりますが、それがそのものとして描かれているかというと、槇村さん、その大きな宿題を先送りにしちゃったなという印象は否めません。
 やはり鯛ちゃんが一番はじけてダンスができるのは三上くん相手でしょうから、このマンガ、次は何編が始まるのかわかりませんが、とにかく結論は、鯛ちゃんと三上くんのダンスに持ち越しということなんでしょうね。

 それにしても、アントニオの言う「日本人が持ってる不思議な共感力」には考えさせられてしまいます。本当に日本人は「共感力」なるマジックパワーを持っているのでしょうか?
 なるほど、「持っていない」と言下に否定することはできないまでも、果たして「持っている」という言い方ができるのかどうかについては大いに疑問を感じてしまいます。「持っている」のではなくて、「共感力」が無意識のうちに働いてしまう特定の場面があるんだ、ぼくたち日本人の意思を超えて、ひとりでにそれが働き出してしまうことがあるんだ、という言い方の方がより実態に即しているのではないでしょうか?

 その意味でいいますと、昨今、社会保障や防災の分野で、公助・共助・自助の3形態がよく言われます。鯛ちゃんのダンスで「共感力」と評された部分は、この3形態の中では「共助」に当たりますね。
 「公助」は公的セクターからの社会保障支援、「自助」は支援を不要とする自立の考え方ですが、「共助」とは、強い意味ではNPOなど非公共の社会貢献活動がそれに当たりますし、弱い意味では地域のコミュニティー力による協働(助け合い)でもあります。
 ただ、ぼくが疑問に感じるのは、共助は、公助や自助と肩を並べる第3項としてあるのかという点です。実際には、共助は独立した要素としてあるのではなく、公助や自助に付随する社会的な気遣いとして、それらに従属する形で働いているにとどまるんじゃないかというのがぼくの見方なんですね。共助を独立項として立ててしまうことには違和感があるのです。

 話をもとに戻して、外国人のアントニオが「日本人が持ってる不思議な共感力」と言うことには、まあ外国人ですからその認識で十分ですし、日本人に対するその敬意に感謝したいとは思っても、このテーマを日本人同士が語るときには、「共感力」という実体的な力を日本人が「持つ」という言い方にはならないだろうと思うんですね。
 それは「力」ではなく、したがって、それを日本人が1つの能力として「持つ」=保持することもできないものです。

 その「共感」は、ある特定の場面でのみ「働き」として現出するのであって、例えば東日本大震災後の復旧活動が典型的なその場面でした。
 ところが、「復旧」のプロセスが一段落してしまい、公的セクター主導の「復興」のプロセスに入ると、すでに日本人の「共感」の働きは消え失せて、愚鈍な行政の日常的な顔がまた幅をきかせ始めます。
 ですから、日本人の「共感」なるものは特定の場面から誘発されるものであって、その場限りでは大きな働きをしますが、その「共感」を永続的に組織化する契機には欠けているという意味で、それは一つの「力」にはなり得ていません。

 すると、日本人は、その「共感」の働きをひとつの実体的な「力」へと高めていく努力をしていくべきなのでしょうか?
 これはちょっと難問過ぎて、ぼくはにわかに答えられませんし、そもそも、そんなことが意図的になされ得るのかどうかもわかりません。どうもそれは人為を超えている気がしないでもありません。
 いずれにせよ、《個》よりも先に《共》の働きが出現してしまい、そこにおいては半ば絶対的な形でひとびとの連帯と共感が成立してしまう日本人の民族性(???)については、私たち自身、よくよく考えてみる価値のあるテーマだろうとは思います。

 えー、今回はアントニオの言葉にばかりこだわり過ぎてしまって、この第13巻のおもしろさを十分にはお伝えできませんでした。
 ただ、おもしろさという点でいけば、ヴェネチア国際編に入る前の物語の方がはるかにおもしろく、また、《個》のダンスと《共》のダンスというテーマもくっきり出ている印象があります。
 この作品、ぜひもう一度読み返して感想を書いてみたいと思いますので、今回ははなはだ理屈っぽくなってしまいましたが、お許しをいただいて、次回を乞うご期待! (^o^)





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