槇村さとる『Do Da Dancin'!』 | 柔ら雨(やーらあみ)よ 欲(ぷ)さよ




 槇村さとるさんという少女コミック界の大御所は、(話を実際に聞いてみたことはありませんが、)わかい女性の愛読者に強い感化を及ぼしているのでしょうか?
 伝統的・封建的な女性観を打ち破って、社会的な自立を押し通すキャリアウーマン、男性に対して自己を主張できる強い女性、男性から見られる存在であることを超えて、女性同士で互いを高め合うライバル間の友情――。

 槇村マンガのこうしたテーマ設定が、それによって背後に押しやってしまうのは、家族の核をなすところの、母なるものの世界です。もちろん、少女コミックというものは自分が母になる以前にいかなる女であろうとするかを主題とするものですから、槇村マンガもその大道を歩いているわけですが、ただ、男社会に対してこれほど過激に対抗意識をむき出しにする女流マンガ家って珍しいんじゃないかなとおもいます。
 このひとの作品を評価しない女性は、おそらく、母なるものと女なるものとをもっと柔らかくデリケートに統合しようとしているんじゃないでしょうか。槇村マンガは、おとこの目から見ても、母なるものがいささか軽視されている印象を受けますので。

 少女コミックの王道たるバレエダンサーの物語を私がおもしろがって読むようになったのは、もうオッサンになってからのことでした。その世界観を知って、若干、後悔を感じないでもありませんでした。
 おとこ兄弟しかいない家庭の少年たちは同世代の女の子と接触する機会が少ないため、恋愛以前に、そもそもコミュニケーションがうまくとれません。同世代の女の子を理解するための一助として、少女コミックは格好の手引になるでしょう。それで女の子からもてたりはしませんが、少なくとも、同世代の女の子の感受性や思考回路に近づくことができ、会話がしやすくなるはずです。

 その場合、少年が手にとる少女コミックは《神話》として読まれます。だとしたら、よい作品を選ばなくてはなりませんね。女の子に人気のある作品ならハズレはありませんが、槇村さんの作品群の中では比較的《家族》のテーマが正面からとらえられている『Do Da Dancin'!』も、若い女性群像がみごとに描き分けられていて、ベンキョーになります。まあ、オッサンの柔ら雨は、単にバレエの少女コミックが好きなせいで読み続けているだけですが……。



たった一人の女が消えてしまったら

世界から意味が消えてしまうんだ



 主人公のタイちゃん、世界的な若手ダンサーのミカミくんから、もうこれ以上つき詰められないほどの思いで愛されてますねえ!
 いや、でもこれ、女性の読者のみなさんからすれば、単なるおとこのヒステリーと見られないでもありませんね。「世界の意味」の源泉が女性の側にしかなくて、男性の側もみずから「世界の意味」を産出し、それを担っているのではないとしたら、ちょっと甘えてんじゃないの? という見方も成り立ちますので。

 ミカミくんは、じぶんの才能と努力のみを信じ、その孤独と外部世界との闘いを通して世界的ダンサーの地位を築きました。舞台上でかれとともに一つのバレエ作品をつくり上げる他のダンサーたちは、かれにとって、寄せ集まった孤独な魂いがいのものではありませんでした。
 少しだけネタバレするのをお許しいただいて、そのようなかれの舞台は大きなアクシデントに見舞われ、もはやこれまでの自分の生き方、踊り方ではダンスを続けられない危機に追い込まれてしまいます。舞台をつくるものは、実はダンサーたちの孤独ではないのではないか? では、一体、なにが舞台をつくる核をなすのだろうか?
 ミカミくんは、予定されていた公演をキャンセルしてまで苦悩の底に沈みます。

 その苦悩の底でミカミくんが出会うのが、まったく無名で遅咲きのダンサーだったタイちゃんでした。そして、タイちゃんはダンサーとしての成長を通して、次第に、ミカミくんがその苦悩から脱出する道を指し示す存在へとふくらんでいきます。なぜでしょうか?
 ミカミくんが《孤》(個)を原理として踊るダンサーなら、タイちゃんは、他のダンサーとともに踊ること、すなわち《共》を原理として踊るダンサーだったからです。
 ミカミくんの上の絶唱――たった一人の女が消えてしまったら、世界から意味が消えてしまうんだ――は、かれの《孤》(個)の原理によっては生み出し得ない《共》のバレエに対する究極のオマージュなのです。

 タイちゃんは、プロの道へ入るために、ようやくのことヴェネチア国際コンクールへの出場権を獲得し、ロシアの世界的な名ダンサーのミーシャと「白鳥の湖」を踊ることになります。
 いよいよヴェネチアへ乗り込んだタイちゃんとミーシャとバレエの先生の3人の会話が、下の絵です。




 ミーシャは、タイちゃんと一緒に踊るときの感覚を、「不思議な感覚ですよ。パートナーという名の他者に、まるで自分の一部のようにぴたりと寄り添われる感じは独特です」と語っています。欧米人同士の踊りからはおそらく想像を絶するその「不思議な感覚」について、先生は、「それって禅の極意?! 武道? サムライ!? 合気道?!」といぶかしんでいます。

 わたしは、ミーシャのいう「自分の一部のようにぴたりと寄り添われる」というのは、まだその真実に到達していない見方だろうと思います。ミーシャという究極の《孤》(個)のダンサーが、あくまでもその《孤》(個)を中心にして語っているからです。
 でも、タイちゃんとともに踊っているときのミーシャの身に生じているのは、タイちゃんが「自分の一部」になってしまうことなのではありません。ミーシャの《孤》(個)がタイちゃんに向けて開かれてしまい、《孤》の原理とは異なる《共》のバレエがそのとき踊り始められたことに対する、まぶしさの感覚なのです。

 パリの先生のもとでのレッスンを通して、タイちゃんはいまや、世界一のダンサーであるミーシャをも乗り越えつつあります。目指されているのは、タイちゃん自身のバレエ、すなわち《共》を原理とするところの舞台です。
 それでは、《共》のバレエとは具体的にどのようなものなのか? それはまだタイちゃん自身にもしかとはわかっていません。まさにその答えを求めてタイちゃんは舞台に立つのであり、まさにそのバレエの具体像に到達することをゴールにして、槇村さとるさんはこの長編を描き続けているのだとおもいます。



これからお読みになる方へ
 ここで紹介した「ヴェネチア国際編」の前に、集英社文庫コミック版『Do Da Dancin'!』全6巻があります。その続編が、この「ヴェネチア国際編」第1~12巻です。おまちがえのないよう(^o^)





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