三好達治と2・26事件 ――《阿蘇》詩篇をめぐって | 柔ら雨(やーらあみ)よ 欲(ぷ)さよ




 ごらんいただいている写真は、Wiki から拝借した19歳当時の西田税(にしだみつぐ)です。単に帝国陸軍軍人の気骨があふれた姿という以上に、過剰なまでの信念と確信に貫かれた不敵なつらがまえですね。
 大正11年の陸軍士官学校卒業後、数年にして軍を離れ、在野の極右活動家として青年将校運動を率い、当時のテロ・クーデタ事件等にかかわりました。昭和7年の5・15事件では銃撃されて瀕死の重傷を負い、昭和11年の2・26事件では首謀者のひとりとして逮捕され、翌年、銃殺刑に処せられました。享年36歳。

 西田税は、陸軍幼年学校から陸軍士官学校時代、1歳年上の三好達治とは同学年で、同じクラス・部隊に所属したこともあり、ふたりは深い友情または同志愛で結ばれていました。まさに上の写真が撮られたころのことです。
 石原八束氏の三好達治伝『駱駝の瘤にまたがって』によると、西田は当時の自分の日記に、「三好は偉大なる魂の所有者だ」と書き残しているそうです。また、同書に引用されている芦澤紀之『二・二六事件の原点』では、ふたりの関係は次のように記されています。


 三好達治にとって、(同級生の)渡辺重治や水谷栄三郎は思想を離れた純粋な友であったが、西田税たちは違った。西田は三好を同志の一人として遇した。だが、西田にとって三好は、同志たちの中でもその思想、運動を離れて、次第に異色の友となっていったようだ。西田と三好の共通点を強いて見出せば、三好は後年詩人として世に出たくらいであるから、(当時、法華経を愛読していた西田とは)文学的センスの面で互いに心に何かふれ合うものがあったのかも知れない。西田の手記には、陸軍士官学校を突如退学した三好を想うくだりが、西田には珍しい感傷的な文章で、特に紙面をさいて、るる記されている。



 西田と三好の関係は、《思想》以前の自然な親密さとは異なり、陸軍主流派に対してともに抵抗する「同志」の関係であったとともに、文学趣味においても一致するところがあった、すなわち、いずれも《思想》以後の友情であったことが述べられています。
 石原氏の三好伝には当時のエピソードとして「武断党事件」が紹介されています。陸軍中央幼年学校では、長州出身の岸本某が硬派のグループ「武断党」を率いて幾多の暴力事件や性的醜聞などを引き起こしており、それに抗して立ち上がったのが、三好と西田らだったそうです。


 大正8年10月下旬(三好は19歳)、突然、三好達治が、同じ区隊に属していた西田税に対して武断党絶滅の蹶起をうながし、ついに区隊生徒の総意として第1学年にも檄を飛ばした(三好や西田は2年生)。ある夜、西田らは岸本を校庭の一角に呼び出して反省を求め、やがて生徒数人の鉄拳制裁にまで及んだが、岸本は昂然と嘯いていたという。こうして第1中隊内で、西田・三好らの第1区隊と、岸本ら武断党の第2区隊の対立が激化し始めた11月末、かねて西田らが公表していた武断党への非難声明が、ついに第1中隊長の採用するところとなり、その後、岸本の退校処分が決定した。(74p)



 ふたりが陸軍主流派(長州閥)に抵抗する同志であったことはこのエピソードからよく窺えますし、士官候補生時代のふたりがともに朝鮮への赴任を希望したのは陸軍主流派への反発からだったと石原氏が記していることにも素直にうなずけます。
 また、ふたりの同期生には皇室の秩父宮がいて、当時の三好は秩父宮と親しくしていた一方、秩父宮と近づきになれなかった西田は三好らを羨んでいました。天皇の「醜(しこ)の御楯(みたて)」としての皇軍の聖性をふたりはみじんも疑うことはなく、だからこそ、陸軍主流派の愚劣さや腐敗をかれらは嫌ったのです。

 とはいえ、そのことは、三好達治が、その後の西田税の青年将校運動までをも肯定していたことを意味してはいません。それでも、士官学校時代の三好が西田に対し、じぶんとは別の社会状況を生きているもうひとりの自分を見出していたということまでは言えようかと思います。ふたりの人生はその後、別コースを歩みますが、ふたりが相手の存在を忘れるなどということは決してあり得なかったと断言してよいと思います。

 三好の後を追うようにして、西田税も軍隊から離脱します。
 士官学校退学後の三好は、京都の三高から東大仏文に進み、卒業後は、わずかな間の出版社勤務を経て、フランス文学の翻訳や詩・批評の文筆業で身を立てます。それに対し、西田税は、北一輝に師事する中で、社会思想家・活動家の道を歩んでいきます。三好は《武》から手を切って《文》へと転向するのに対し、西田は《文》(思想)によって《武》を社会革命に接続させようとしたのです。

 それでは、軍隊を離れた後、ふたりには接点が全くなかったのでしょうか? ――これが本記事のメインテーマです。
 今のところ、ふたりの接点を示す資料に私は出会っていませんし、石原八束氏らの手になる三好の年譜にもそれらしき記述はありません。したがって、現時点では、ふたりは軍隊時代の交友を忘れたことはなかったものの、その後の人生において具体的な接点はなかった、あるいは極めて稀薄なものでしかなかった可能性が高いようです。

 しかし、その後の人生の大きな転変の中で三好達治は、過去の友、西田税の存在を思い出さないわけにはいかなくなります。昭和11年の2・26事件が起きた翌月、西田税はその首謀者の一人として逮捕されたからです。
 2・26事件当日、三好は病後の療養のため信州の温泉地、北哺(ほっぽ)に滞在していましたが、同年5月には上京して一家を構えます。ところが、石原八束氏によれば、すぐに九州阿蘇山へと旅し、そこで詩集『艸千里』(昭和14年7月刊)に収録される詩「艸千里濱」を書いています。

 今回私が読むのは、三好のこの「艸千里濱(草千里浜)」ですが、問題は、作中に出てくる「友」の一語がだれを指しているのか? です。この「友」は西田税その人を指しているのかいないのかが今回のリーディングの最大の焦点です。





  艸千里濱

われ嘗(かつ)てこの國を旅せしことあり
昧爽(あけがた)のこの山上に われ嘗(かつ)て立ちしことあり
肥(ひ)の國の大阿蘇の山
裾野には靑艸しげり
尾上には煙なびかふ 山の姿は
そのかみの日にもかはらず
環(たまき)なす外輪山(そとがきやま)は
今日もかも
思出の藍にかげろふ
うつつなき眺めなるかな
しかはあれ
若き日のわれの希望(のぞみ)と
二十年(はたとせ)の月日と 友と
われをおきていづちゆきけむ
そのかみの思はれ人と
ゆく春のこの曇り日や
われひとり齢(よわい)かたむき
はるばると旅をまた來つ
杖(つえ)により四方(よも)をし眺む
肥(ひ)の國の大阿蘇の山
駒あそぶ高原(たかはら)の牧(まき)
名もかなし艸千里濱



【大意】私はかつて(大正9年に)熊本の国を旅し、早朝のこの山上に立ったことがあった――肥(ひ)の国の大阿蘇の山。裾野に青草が茂り、頂きに煙がなびく山の姿は、かつて登高した日と変わるところがない。環(たまき)をなす外輪山(がいりんざん)は、今日も思い出の藍色にかげろった、ぼんやりとした眺めである。
 山の風光は変わらなくとも、若き日の私の希望と二十年の月日と友は、私を置いてどこへ行ってしまったのか! あの当時の思われ人のその後の運命の転変と、今も何ひとつ変わらず行く春のこの曇り日よ!
 私ひとりが齢(よわい)をかたむけ、はるばるとまた旅に来たことだ。そして、いまは杖に寄りかかって四方を眺める。肥(ひ)の国の大阿蘇の山、馬が遊ぶ高原(たかはら)の牧(まき)。名もかなし艸千里濱。




 この詩は、戦後、阿蘇山をめぐる観光バスの中で、バスガールが朗読して乗客に聞かせるほど有名な作品なのだそうです。
 石原八束氏はこの作品について、以下のような、たいへん重要な読みを示しておられます。注意深く読んでみることにしましょう。


 上の2行目<昧爽(あけがた)のこの山上に われ嘗て立ちしことあり>と云うのは、三好が士官候補生の軍靴で、[同じ区隊に所属していた友の渡辺重治とともに]大正9年に登高したことをさしている。<二十年(はたとせ)の月日と 友と>は、だから、親友渡辺重治をまず考えていいだろう。だが、三好がこの詩を書いた昭和11年夏は、その2月、西田税も連座した二・二六事件が勃発し、北一輝や西田のほか多くの現役将校が牢獄につながれていた時期である。<われをおきていづちゆきけむ>と詩人が詠嘆の感慨をもらすその胸中には、渡辺重治ひとりではなく、同じ反骨の級友西田税の面影もなかったとは云えまい。(63p)



 石原氏によれば、三好は生涯の間に阿蘇へ3回登っています。1度目は大正9年、大分県の中津出身の友、渡辺重治とともに。2度目はこの詩が書かれた昭和11年。3度目は戦後になって、石原氏とともに。
 2度目の阿蘇行の動機について、石原氏は、三好が「いつもの煙霞(えんか)の癖(へき)に誘われて」(=放浪癖、旅行癖にさそわれて)としていますが、新婚早々で東京に家を建てたばかりの三好が、目的を持たない旅のための旅にすぐさま出てしまうというのは、ちょっとにわかに信じられません。3度目の阿蘇登山には筆者の石原氏本人が三好と同行していますから、三好の阿蘇登山が3回だったことは間違いないでしょうが、2度目の阿蘇登山の動機を三好は石原氏に明確に語っていないのではないでしょうか?

 石原書を見ますと、三好が友を大切にする人柄であったことがよくわかります。2・26事件で西田税が逮捕されたことを知ったとき、衝撃を受けた三好は、ぶらりと阿蘇登山に出かけたのではなく、旧友の渡辺重治氏に連絡をとるべく、まずは大分の中津へ行ったのではないでしょうか? そのとき、三好はおそらく渡辺氏の居所を知らず、郷里の中津へ行けば、たとえ本人に会えなくても居所を知ることはできるはずだぐらいの腹づもりだったのではないでしょうか?

 三好としては、旧友の渡辺氏と会って、逮捕された西田税に対して自分たちが何かしてやれることはないかを相談するつもりだったのだろうというのが私の第一感です。中津へ行った三好が渡辺氏と会えたのかどうか、会って相談したとして、西田への助力の算段が成ったかどうかはわかりませんが、中津行きの後、三好はふと思い立って阿蘇へ登ったのだろうと解するのが私には自然であるように思います。

 したがって、そのときにつくられた詩「艸千里濱」に1カ所だけ出てくる「」は、石原氏が言われるような、まずは旧友の渡辺重治氏を指すととともに、西田税も含んでいるという読み方がふさわしいとは思われません。まずは誰をおいても、この「」は逮捕された西田税を指しているのであって、西田税を核とすることによって渡辺重治氏も含まれるというふうに読むべきだと思います。

 西田税が逮捕されたのが昭和11年3月、この詩「艸千里濱」が雑誌「むらさき」第19号に発表されたのが同年の9月。この前後関係からして、「艸千里濱」は、旧友の西田税の衝撃的な逮捕によってもたらされた深い憂愁の念が書かせたものだと私は確信しています。
 作中の「そのかみの思はれ人」が一体だれを指すのか、思われ人という日本語からはふつう、思いを寄せた女性を思い浮かべますが、やや破格な読み方として、西田税を指している可能性も皆無ではないように思います。

 むろん、当時の世論は、あからさまな形で西田税を擁護することはできません。三好達治もまた西田に対する思いを直接詩に書くことはできず、旧友の渡辺氏と阿蘇山に仮託する形で詩にしたのではないでしょうか?
 だとすると、2・26事件以後に書かれた三好の詩の中には、「艸千里濱」のほかにも、この事件及び西田税をテーマにした作品が書かれた可能性があることになります。そのような目で当時の三好の詩集『霾(ばい)』や『艸千里』を眺めますと、すぐさま幾つかの作品が2・26事件との関係のもとで読めるものであることに思い至ります。

 まず、「艸千里濱」の続編に位置する作品「大阿蘇」がそうですし、「艸千里濱」と同時に発表された、三好の名作と言われている「涙」もそうです。さらに、「廃園」は西田の銃殺刑に対する哀悼詩である可能性が高いですし、2篇の「あられふりける」も、2・26事件当日の東京は雪でした。これが歴史的現実とは無縁の、自然界に埋没した詠嘆だとは思われません。

 これらの詩篇群をとりあえず私は《阿蘇》詩篇と呼んで、今後、2・26事件および西田税との関係を調べていきたいと思っています。
 むろん、柔ら雨の単なる妄想にすぎない可能性も多分にあります。きびしい批判をお待ちする次第です。





Android携帯からの投稿