巴紋(ともえもん)の多様性  『おもろさうし』の方へ (4) | 柔ら雨(やーらあみ)よ 欲(ぷ)さよ




 私は、今回、『おもろさうし』を読むために、吉成・福氏の『琉球王国と倭寇』の検証作業を足がかりとすることにしました。他者の説への批判をばねにして自説を打ち出すという仕方は、どちらかというとあまり好きではありませんが、内部から自説が膨らんでくるのを待っていたら、残り少ない私の人生が終わってしまいます。それでしたら、なりふりかまわず、手当たり次第書き続けることを通して、自分の『おもろさうし』論を徐々に膨らませていった方がましです。

 幸い(?)、吉成氏は、私も昔、学習会に参加したことのある法政大学沖縄研究所の教授で、琉球史や『おもろさうし』に関する著作も多数あります。私が読んだ氏の著作は『琉球王国と倭寇』だけですが、胸を借りる相手としてはちょうどよいでしょう。
 このテキストに対して、私は、歯に衣着せず批判する立場にあえて自分を追い込んでしまおうと思っています。自分自身の『おもろさうし』論を立ち上げるためのジャンプ台としてです。吉成氏と福氏には、お目にかかって親しくお話を聞かせていただけたら、この上なく楽しい時間が過ごせるだろうなと思っています。

 さて、『琉球王国と倭寇』で一番まずいと思うところは、題名に「王国」と「倭寇」を並列している点です。この2つを並列させて怪しまない歴史観・国家観から、吉成・福氏は、「琉球王国の成立には倭寇勢力が深くかかわった」という結論を導き出しています。
 私も、倭寇勢力が沖縄諸島に航海の中継拠点を築いていたことは疑問の余地のない事実だろうと思います。問題なのは、中近世的な国家形成主体の一翼として倭寇勢力がそれに参与し得たのか? という歴史哲学、国家哲学にかかわる部分です。

 ひとくちに倭寇勢力といっても、それは雑多な海洋系社会集団を一くくりにそう呼んでいるだけであり、それが一個の統一的な客体を形成しているわけではありません。人種的には和人・朝鮮人・中国人にまたがりますし、和人だけに限って見ても、武士崩れの海洋軍事集団・漁民集団・海洋商人集団にまたがっています。
 仮に、これら雑多な社会集団が一つの客体として「倭寇」を形成していたと見たところで、そもそも、「倭寇」は国家の形成を志向する社会集団であり得たのか? という国家論上の問題が残ります。

 倭寇集団に対する私の見方は、国家(領土国家)形成の力に同調することなく、そこに所属しようとする意思を持たずに、むしろ、それを陰に陽に解体しようとする力の流れの中で初めて「倭寇」なる存在として姿をあらわすのであって、倭寇が「国をつくる」だとか「国家形成に参与する」といった命題は語義矛盾であるとの立場に立っています。
 海洋民の行動パターンは、いつだって、国家という定住・領土空間を通り過ぎて向こう側まで突き抜けてしまうのであり、かれらが沖縄に中継拠点を持っていたとしても、かれら自身は「拠点=定住地」という思想を受け入れているわけではなく、「拠点」という語に固執して言うなら、航路のネットワークそれ自体が、かれらの「拠点」なのです。

 家船(えぶね)と呼ばれる船の中で一年じゅう昼も夜も生活して、めったに陸に上がらない遠洋漁業集団が「倭寇」という現象の底辺を支えているのだとすれば、かれらの脱国家的な国家の領土に当たるのは、海そのものです。海がかれらの国(ではないところの領有生存域)なので、この集団を陸に揚げてしまって国をつくらせようとするのは、船を後ろへ走らせよと命じるようなものです。

 史実としては、倭寇の連中が沖縄に定住することを受け入れ、やがて土着民とまじり合ってしまうといった現象は確かに起こったはずですが、しかし、定住国家の内部へいったん包摂されたが最後、倭寇という存在はその時点で否定されてしまいます。定住国家に包摂されたら、倭寇はそれ以後、国家に従属する海洋民として生きることになり、もはやそこに倭寇は存在しません。元倭寇の現海洋民が、新国家の建設にどれほど寄与したとしても、それを「倭寇勢力による国家形成」と見るのは、国家論として当を得たものではありません。

 15世紀後半~16世紀前半の海洋通商国家としての琉球国の繁栄をその内部から見るときにも、この国の存立基盤が、まさに「倭寇」の強い否定の上に置かれていることがわかります。
 明国の海禁政策は、中国沿海州における倭寇の暴虐に手を焼いた中国当局が、外国との通商を朝貢貿易に絞り込むことで、倭寇を排除するために始まったものでした。
 倭寇は海賊行為のみを事とする集団ではなく、基本は民間交易船であって、交易で得た船荷が船倉の5割しか満たなかったときなど、もっと積んでいかなきゃ割りに合わないというので海賊行為に及び、船倉を満たした上で九州や沖縄の港へ戻っていったのでしょう。

 こうした民間貿易を排除して、国家間の朝貢貿易に絞り込んだ明国の海禁政策は、明の周辺諸国において国家それ自体の地位を上昇させ、中国から公許されるための国家体制の整備が著しく進行します。中華帝国・明と東アジア周辺諸国との朝貢貿易を外交関係の基本とする冊封(さっぽう)体制の確立が、この時代における東アジア世界の安定と繁栄をもたらしました。これを東アジア華夷秩序と呼びます。

 この時代、琉球国が主として中国との貿易で大もうけができたのは、琉球国が中国からの冊封を受ける国家体制を整備し得たからであり、この体制整備の第一の眼目は、実は「倭寇」の否認にありました。
 琉球国が、遠洋航海・造船技術を取り入れるために倭寇勢力の力を借りたことは確実ですが、しかし、それは、倭寇という存在形式に対する強い否認を伴って行われたのです。明国に対して、「自分たちは海賊行為を行わない礼節を重んじる(=朝貢貿易のルールを遵守する)海の民です」という意思表示をし、それが明国から認められることによって琉球国は成立したのですから、吉成・福氏の言うような「琉球国の形成過程に倭寇が参与した」という命題は、少なくとも、その表現のままでは成り立たないのです。


 吉成・福氏によれば、倭寇勢力がその航海守護神として信奉したのは、神功皇后と応神天皇の母子神を最上位に置く八幡信仰でした。源氏物語ではこれを「やわた」と読んでいますが、吉成・福氏は、もっと時代をさかのぼれば「はちまん」と読んでいたはずだとして、「はちまん」信仰は、朝鮮半島の風雨の神、ヨンドン・ハルマン(老婆の姿をした子連れの神)信仰がその起源であると主張されています。なるほど、ハルマンと八幡(はちまん)は音も似ていますね。

 倭寇勢力が航海守護神として依拠した八幡信仰は、三つ巴のデザインを神紋としています。この巴紋は、武家の家紋としても極めて一般的なものですが、それ以前に、平安時代には火除けのまじないとして、屋根瓦の文様に広く用いられています。
 (写真上:東京高田馬場の穴八幡宮ののぼりには、穴八幡の文字の上に巴紋が描かれている。下は、巴紋が入った屋根瓦の「巴瓦」)








 ところで、琉球国の王家の尚(しょうし)氏ですが、第一尚氏、第二尚氏ともに、その家紋は、冒頭に掲げた3色の左三つ巴紋です。つまり、琉球国の国旗です。

 吉成・福氏は、この巴紋の共通性から、第一・第二尚氏が信奉していたのは九州の航海守護神である八幡神だったと推論しています。
 そして、この巴紋の図柄は、3つの勾玉(まがたま)を組み合わせて円をなした形であり、そのことは『おもろさうし』にも歌われているとして、次の歌を引かれています。

聞こえ煽(あお)りやいや
巴(ともえ) 三曲(みま)がり 掛けわちへ
神座(かぐら)の京の内(うち)る かに ある
 (巻12第683歌)

【大意】名高い神女の「煽りやい」が、3つの勾玉を組み合わせた巴型のデザインの首飾りを首に掛けて踊られると、わたしたちは、天上界(神座)の宮殿の中にいるかのような思いになる(それほど、「煽りやい」神女は美しい!)。

世寄(よよ)せ 三つ廻りしよ
玉の王やれな
果報は 首里親国(しゅり・おやぐに)
 (巻7第382歌)

【大意】世(=豊饒)を現世にもたらす(=寄せる)三つ廻りの勾玉の首飾りこそ、玉(たま)の中の王である。その果報は首里親国(=琉球国)に集まってくる。

 この時代、日本列島から沖縄への輸出品の重要な1品目が、勾玉でした。当時、日本列島では仏教が庶民階級まで浸透していったのに伴い、それまで土着呪術信仰の神具として用いられていた勾玉は用済みとなっていました。
 海洋商人たちは、日本列島で用済みとなった勾玉を引き取って、これを沖縄へ運びました。沖縄の古語ではこれを「まがたま」ではなく「がーら玉」と呼んでいました。

 第二尚氏以降の王国の最高神女は聞得大君(きこえおおきみ)ですが、聞得大君が制度的に設けられる前の、第一尚氏の時代の最高神女は、上に引用した煽りやい神女です。(表記「煽りやえ」または「煽りやい」を、私はアオリャイと読んでいます)。

 煽りやい神女が、ガーラ玉を編んでつくった「巴三曲(ともえ・みま)がり」のデザインの首飾りをかけて踊るこの神歌は、「琉球」のイメージに欠かすことのできない「(空を舞う)天女」の像の源泉のひとつとなっているものです。
 沖縄の神女がうつくしい紅型衣裳を着て舞う姿は、天上界で舞う天女(絵画では空を飛んでいる女人の姿であらわされる)がのり移ったものと見られているのであり、その美の第一に挙げられているのがガーラ玉でつくられた「巴三曲(ともえ・みま)がり」です。





 さて、吉成・福氏の巴紋をめぐる所説について、ここでは肯定も否定もしないでおこうと思います。
 琉球王家の巴紋が、九州の航海守護神である八幡神を受容したことを意味している可能性は多分にあると言えます。琉球国にとって、航海守護神の効験には死活的重要性が認められていたはずであり、嵐による船の難破から守ってくれる神が、国家としての琉球にとって最高位の神々のグループに属していたことは確実です。

 他方、神女たちの「巴三曲(ともえ・みま)がり」に対する呪術信仰は、かならずしも航海守護神という一点に集約され切らない、もう少し広がりのあるイメージを持っています。
 もともと、巴紋の意味については諸説あって、何が正しいのかわからない状況にあります。尚家の家紋の巴紋をガーラ玉の「巴三曲(ともえ・みま)がり」と解しているのは、あくまでも当時の琉球神女たちであって、九州の地の八幡信仰もまたそれを勾玉と結びつけていたのかどうかは判然としません。

 巴紋のようなデザインを一意に解釈され得るものと見る方がどだいむりな話で、巴紋を大切にする集団ごとにそれぞれ固有の重い意味づけがなされていたと見る方が無難でしょう。
 少なくとも『おもろさうし』に見られる限りでは、巴紋はガーラ玉と結びつけて解されており、九州の八幡信仰と結びついた表現が見られるわけではありません。その点では、吉成・福氏の所説には弱いところがあります。

 とはいえ、吉成・福氏の所説はそれほど単純な巴紋の比較だけで終わるものではありません。
 煽りやえ神女は、その名に「あおる」という動詞が入っていることからわかるように、風の神に仕えていて、それはすなわち、彼女が航海守護神であることを意味する、九州の八幡信仰における神功皇后への信仰が、琉球では煽りやえ神女に対する信仰になったのだと吉成・福氏は主張されます。

 たいへん興味深い説ですが、煽りあえ神女についてはまた次回以降に。



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