京都で、神馬が(日によって)おわす神社へ。
京都市内でも、山…川…住宅…畑…神社くらいしか見えなくなる地域があり
そちらの物件を内覧にゆきまして。




かえりに、懐かしい…山の水で淹れた珈琲をいただきに。おんまさんの居る神社。
当日は流鏑馬の馬たちも鎮座、鎮座。
神馬に、お札とまではできませんでしたが美味しいにんじんを貰ってくださいとお賽銭。




こういうとき、どうか馬のためにどうか使ってくださいますようにと(笑)念のために祈念しながらです。
でももしかしたら、おんまさんは自由に野山に駈け出したい…としたら。と複雑ですが
この日本で野山に馬がいたら現実的な最期となる。
それでもいいの、と駈け出せたときの気持ちをおもえば、それでも良いのだろう。




どうしたら良いのかわからなくても人参だけでもどうぞ…とチャリンとひとつ箱に納めた。




この場所はわたしの京都を歩むこととなった源流。
あのころは毎月、夜行バスで夜明けに京都に着き。まっすぐいつもこの地へむかった。
太古の木々と水流れをつたえてゆく山を御祖とし、この地に社を。とした都の暁の刻から
大宮びとも誰もかれも足を運んだことだろう。




人々の歩いてきた足跡がみちとなる。
みちなるものを知ろうとするとき、人々は尋ね訪ねる。
私たちは目に見える事象や理解できる物事しか見出せないと考えているけれど
じゅうぶんに目に見えない物事を携えてこの世にいきている。




顕微鏡でみれば、ある。とされるものも
まっさらなただの自分の眼では認知できない。
ならば、見えない、顕微鏡でも…みえない。ものは存在しないというわけでもなく
単純なハナシならば顕微鏡ていどのものでは見えていないだけ。という見解にもできる。
だから見えていても見えていなくても、計り知れない事象があるのだと謙虚に受け止めるしかない。




大人が子どもを制止したり、これはこういうことなんだ。と教えてあげてしまうと
子どもは素直にじぶんの眼でこの世をみれなくなってしまう。
おしえる、とは何よりも自分で経験させること。
大人の姿をみて真似ること。
黙っていても子どもに真似をさせるだけでそれは教えていることになるのだろう。
大人たちに世の中の道理を教科書的に言葉を積まれても、それは解った気にさせてしまうだけで終わってしまう。
それがわたしの世代を含めた人間界の様相。




下の世代に伝えられることは、私たちが経験している姿をみせること。
じぶんが経験していない事はおしえる事はできない。顕微鏡でなにかが見えたとしても、ある意味それ以上でもない。




けっきょくコ□ナが新種でもそうでなくても、コ□ナが在っても無くても…ちがう原因だとしても
起きている現象をどうするかにしか平民にとりましてはそこにしか意味がないのが実情です。
そこは臨床の現場と、研究職とのあいだにある物凄く深い隔たりなのだろうなぁ。。




計り知れない事象、、受け止めたうえで
何億と居る人々は各々の解釈をしたり気づきを得る。




これではいつまで経っても埒があかない、ひとつひとつを集積して統合するが望ましい。
わかりたいという気持ちが、いつしか今様のシステムをつくっていった。
ひとつひとつが穴ぼこだらけのパズルのピース。
ワンピースをワンネスピースへと。
そんな世のうねり。




正解を知る者は、大人たちは正解を教えたがる。
正解はひとつだけだと教える。




みちをたずねる、自分の歩みとは。




野山に飛び出す馬のこころを想いたい。




あっ、今回の内覧はふしぎな建て付けで…
山を開いたのを段々畑、ならぬ段々住宅にしているような?緩やかではありますが。
ちなみに土砂災害イエローです。
周辺はよい環境ですが、なんだか不安定な気持ちになりそうだな。と
よい建物でしたけれど…✰
感覚的な納得感をたいせつにいきましょ〜!