看板のない鮮魚店「気付けば願った以上の家庭になっとった」 <信仰体験>2019年10月17日

 【和歌山県新宮市】看板のない魚屋である。掲げない理由は「いつ、つぶれるか分からんかったからね」。1978年(昭和53年)、間借りした車庫から始まった店舗は、今の場所に移って30年になる。小さくとも、いつも笑顔が咲く「中村鮮魚店」。その中心には、中村明美さん(68)=婦人部副本部長(地区婦人部長兼任)=がいる。

 魚屋の朝は早い。
 午前5時から、夫・孝さん(69)=副常勝長(副ブロック長)=と、長女の夫・谷口博さん(47)=副支部長(常勝長兼任)=が市場へ仕入れに向かう。

 午前8時、車が戻ってくるや中村さんは、長女・谷口美由紀さん(46)=白ゆり長=と手分けして、魚をさばき、注文票と照らし合わせて梱包。軽トラックに積み込む。配達先は、病院や高齢者施設、学校や居酒屋など多岐にわたる。

 「午前中は時間との戦い」。中村さん夫婦と、長女夫婦では手が足りず、数人の従業員と切り盛りする繁盛店である。「まさか、こんなに続くとは思わんかった(笑い)」

 開店当初の話になると、「天井は穴だらけやった」「『三枚におろして』ってお客さんに言われてから、知り合いに習いに行った」等々、大笑い。
 だが、あの日々は中村さんにとって地獄のような苦しい時。それを笑い話にできる今は、「最高に幸せ」と胸を張れる。

左から夫・孝さん、長女・美由紀さん、中村さん、長女の夫・谷口博さん

左から夫・孝さん、長女・美由紀さん、中村さん、長女の夫・谷口博さん

 幼い頃、父がだまされて借金の肩代わりをする羽目に。裕福だった家は一転、借金取りにおびえた。
 「あそこが一番不幸な家や」。近所では有名だった。ある日、学会員が訪ねてきた。父母はわらにもすがる思いで入会し、軒先に「創価学会」のちょうちんを提げて、座談会を開くようになった。

 だが中村さんには不満だった。“そんなにすごい信心なら、なぜ元の生活に戻らないの”。父は病を患い、母は食堂で働いた。学校で「拝み屋の子」と言われるのも、耐えられなかった。

 思春期になると、家の外に居場所を求めるようになり、出会ったのが孝さんだった。浜育ちで人情に厚く、頼りがいがある。20歳で両親の反対を押し切って結婚。御本尊を持たずに家を出た。

 幸せを追っての結婚だったが、期待は裏切られる。定職に就かずに遊び歩く夫。顔を合わせればけんかになり、暴力を振るわれた。子どもが生まれても、顔を見に来たのは数日後。親戚が勝手に家を出入りする家風にもなじめなかった。「針のむしろに座らされた」日々だった。

 不遇を嘆く中に、希望の糸口を見つける。「絶対的幸福をつかむ信心」との文字を見つけたのは、母から「これだけは」と購読していた聖教新聞だった。一度も開いたことはなかったが、吸い寄せられるように読んだ。そして「信心だけは離れたらあかん」と繰り返していた父の言葉を思い出した。

 76年、夫に頼み込んで、家に御本尊を迎えた。長女を連れて学会活動に励むように。「文句たれの信心だった」が、同志は根気強く励ましてくれた。2年後、「魚屋になる」と言いだす夫のことを愚痴ると、「広布の魚屋になりや」と言われた。その時は意味が分からなかった。

 レジ代わりの空き缶に、陳列台は一つだけ。客の前では作り笑いを振りまいても、家に戻れば険悪な仲。商売が、うまくいくはずもなかった。
 働けども自転車操業が続いた。心身ともに疲れ果てる中、第二子を身ごもった。度重なる流産の危機。そのたびに懸命に祈った。だが次女は生まれて1週間で、息を引き取る。通夜は3月3日。ひな祭りの飾りをひつぎに納めた。

 わが子の死ほどつらいものはない。「この苦しみをどうしたらええんな」。張り裂けそうな気持ちを御本尊にぶつける。8時間、9時間と時を忘れて祈るうち、苦しみが消える瞬間があった。

 「未来に地獄の苦を受くべきが今生にかかる重苦に値い候へば地獄の苦みぱっときへて」(御書1000ページ)の御聖訓通りだった。転重軽受の法理を、わが子が教えてくれたと感じた。不信が消え、御本尊への感謝が込み上げた。

地区婦人部長を28年。試練の時はいつも同志に励まされきた

地区婦人部長を28年。試練の時はいつも同志に励まされきた

 確信の祈りは、現実を変えていく。
 「一家和楽の両輪は、二人で回すもんや。一人ではしんどいで」「時は待つもんやない。つくるもんや」。先輩に励まされ、拳が飛んでくる覚悟で、夫に信心の話をした。夫もまた、夫婦の溝を埋めようと歩み寄ってくれた。81年に入会した。

 4年後、もう望めないと医師から言われた体に子が宿った。今度は体を気遣う夫。「宿業は、肩をたたいて、目に見えるように功徳を出して、消えていくもんや」。先輩の言葉通りだった。長男・大器さん(34)=男子地区リーダー=が生まれた。
 大器さんは中学3年の時、「関西創価高校に行きたい」と言いだし、猛勉強の末に合格。夫婦は顔を見合わせ、驚きながらも送り出した。

清華さん(右から2人目)ら孫たちの成長が「何よりの楽しみ」

清華さん(右から2人目)ら孫たちの成長が「何よりの楽しみ」

 経済的な苦しさから「大学は公立で」と説得したことがある。大器さんは「創立者・池田先生の弟子として、創大を卒業して先生を宣揚したい」と言った。「それなら行け!」と夫は目を真っ赤にし、中村さんは「わが子から“弟子の道”を教えられた」と。

 夫の頑張りで、仕送りが必要な分だけ、取引先が増えていった。大器さんは法科大学院に進み、司法試験に合格。愛知で弁護士として活躍するように。
 「気付けば、願った以上の家庭になっとった」

 太平洋のそばにある小さな魚屋。店に看板はなくとも、底抜けの笑顔があり、なじみの客がいる。これこそ「広布の魚屋」の実証であり、自分なりの「師匠を宣揚する道」。中村さんはそう思っている。

<取材余話>

 昔の話で、中村さんと美由紀さんが盛り上がると、孝さんはばつが悪そうにする。「あの頃のお父さんといったら……」と、矛先が自分に向くのが分かっているからだろう。小声でつぶやく。「こういう時には、悪者が必要やからな」。それを聞き逃さない美由紀さんが、「全部、本当のことやん」とつっこむ。再び笑い声に包まれる。

 美由紀さんは長年、母につらく当たる父を許せなかった。父も気持ちをうまく表せず、ぎこちない関係が続いた。それが、父が信心を始めて変わった。
 看護師だった美由紀さんが女子部本部長の時、無理がたたって体調を崩し、入院することに。いち早く駆けつけたのは父だった。

 父と娘の会話は弾まない。魚臭い体に香水をふりかけ、連日、見舞いに訪れた。娘のかたくなな心が緩んだ。
 美由紀さんが魚屋を手伝うようになり、献身的な夫・博さんと結婚。皆で一緒に働くことになった。
 孝さんを「たーくん」と呼ぶ孫の清華さん(13)=中学2年=が加わると、孝さんはさらに相好を崩す。

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